休憩室は少しずつ夜へと近付いている。時折奇声を上げながらコーヒーを淹れる白波を山吹は笑みを浮かべながら眺めている。
はいどうぞっす!ちょっと濃いかもしれないっすけど。
大丈夫なんだろうな?
地獄のように黒いマグカップの中は、薄茶色の泡がぐるぐると円を描いている。
山吹はそれを口元へと運ぶ。白波はその様子を眺める。
・・・濃いな。
やっぱりっすか!淹れ直すっすよ?
いや大丈夫だよ。ありがとう。
へっ?と白波は首を傾げる。あまりに聞き慣れない言葉は耳を素通りする。山吹は何でもないと首を振る。
まぁ生化学検査で抗凝固機能が如何に大切かはわかっただろう?
もうメモも頭もパンパンっす。
一度で覚えられる事なんて少ないからな。何度も見返すだけで良い。そこから何を考えるか。それが大切だからね。
うっす。と白波は返事をする。何ともこの後輩は分かりやすいと山吹は改めて思う。
しかし急性期病院ならいざ知らず、病状の安定しているのが条件の回復期病棟や在宅では、ずっとモニタリングをするのが難しいのは分かるな?
そうっすね。でもちゃんとお薬を飲んでいるのを確認したら大丈夫なんじゃないっすか?
それも一つだが、そうでもない時も多い。薬を飲んでいるから大丈夫。という訳でもない。その時は良くても長い目で見るとそうではない事もある。新しい疾患や合併症、生活スタイルの変化で容易に変わるからな。
例えば・・どんな事なんすか?
ふむ。と山吹は今日の事を思い出す。回復期病棟で見た一人の患者の事だ
例えば良く見るのが、新しく脳出血を発症する。そしたら抗凝固系の薬は一時的に止まる。
それ以上出血したら大変っすもんね!
他にも肺炎などを起こしたり、加齢に伴う変化もまた抗凝固系に影響を与える。しかし元々薬を飲んでいるならば必ずモニタリングされているはずだから安心して良い。皆、深部静脈血栓の恐ろしさは知ってるからね。
なら大丈夫っすね!皆んなしっかりしてるっすもん!
そう・・・だな。ただ気を付けなければいけないのは、新しく抗凝固療法が必要と考えられる時だよ。
山吹は病棟で寝たきりになっていた患者を思い出す。山吹が担当しており一般病床で治療を終え、回復期病棟へ転棟したばかりの患者だった。高齢で小柄な女性の患者だった。
元々、抗凝固の薬を飲む必要がなく、また症状が軽度であったとしても、例えば肺炎などを起こす事で臥床傾向となる事も多い。入院中や在宅でも関わらずにね。
入院中であるならば・・・いわゆるリハビリを出来る状態ではない。という事っすね。
本来はリハビリが必要な状態でもあるけどな。そして臥床傾向となると、どうしても脱水傾向となる。詳しい機序はまたいつか話すが。そしたら血液はどうなるのだろうか。
えぇとまず動く機会が少なくなるから血の流れは滞るっすね、そして脱水ならば血液の中の血も少なくなって・・・ドロドロになるっすね。
そうだな。それがまず大きなリスクだという事は分かるな。
はい。と白波は頷いている。表情は硬い。
しまったなと山吹は目を背けるが、回復期病棟で急変したかつての担当患者の顔が浮かぶ。目尻に柔らかいシワを作り、車椅子で編み物をしていた。確か孫に渡すとも言っていた。
他にも麻痺のある患者が病棟で転倒し、骨折したとする。その際には同様の機序で血はドロドロとなる上に、麻痺と骨折はそれだけで大きなリスクとなる。治癒過程の中で血液凝固を経る訳だから、容易に血栓は生じる。
動けない上に、痛いっすよね。どうしたら良いんすかね。
先ずは血栓のリスクが高まる事を情報共有する。そして僕らが出来るのは下肢にちゃんと血が巡っているかを確認し、そして血を巡らせる事だね。足の色は正常か、足背動脈の触知は可能か、ふくらはぎを動かして痛みが出ないか。必ずみんなで確認を行う。必要時には主治医より服薬の調整も行ってもらう必要もある。
そして足のストレッチすね!動けなくてもウチらが動かせば大丈夫っす!
そうだな。だけども必ず血栓がない事を確認した上で行わないと、逆効果になるから注意だ。僕らの手技で血栓を飛ばす訳にも行かないからね。
それはそうっすね。もちろんっす!
今日回復期病棟へ様子を見に行った。枕元には編みかけの編み物が置かれていて、その患者は目を閉じていた。新規の脳梗塞という事だった。
一度肺炎を起こし、医師からは離床の許可は有ったが、それからリハビリを行えていない。確かその担当は言っていた。静かな暗い病室だった。
でも本当に考える事が多いっすね。頭で茶を沸かせるっす。
それはヘソだろう。とにかく先ずは現在血栓を作るリスクがないか、そしてこれから血栓が出来るリスクがないかを念頭に前回話したデータを確認する事だね。それからの話はまた話すよ。
そうっすね。困ったらすぐに相談に来るっすね。
そうだな。三人でヒソヒソ話をしながら、こちらを見る前に頼むよ。
うへっ!と白波は身を固め、山吹は笑みを浮かべる。
見てたんすねー。いやぁお恥ずかしい・・・
別にいいよ。ありがとう。
聞き慣れない言葉は耳を素通りする。だから何っすか?と聞き返す白波に山吹は笑みを残したまま窓の外を向いた。
そして今日はあまりこっちを見なかったすね。白波はその横顔を眺めながらそう思った。
白波百合のノート 30
・服薬を行っていたとしても血栓のリスクが高まる事もある。
・検査データだけではなく現在の状態からリスクを予測する。そしてそれを必ず情報共有を行う。
・血栓がないのを確認したら例えベッド上でも血栓予防の為にリハビリを行う。←他の原因も考えるっす。
・あまり先輩を元気にできなかった。
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