山吹薫の想い出 その⑤  〜セラピストを選んだ意思〜 【山吹薫の昔の話】

山吹薫の想い出

あの患者様を受け持つことになった。

主任の配慮か何かは知らないが、それでも内心浮き足立った。

普段の業務でも患者様は当然のように受け持つ。

だけども今回の患者様だけは違った。

入院した時からずっと経過を見ていた。

それは周りにはケーススタディとは言っていた。

しかしどうしても似ていたのだ。

自分の祖父に。

今は療養型病院で長い間眼を覚ますことのない祖父の姿にだ。

自分には母親は居ない。小さい頃に遠い所に行ったと父に聞いた。

そして厳格な教師である父は自分に厳しく接したし、それを僕は当然だと思った。

それは自分を立派な人間にしたかった父の思いであるのは分かる。

そして自分もまたそうなるのだと自然に思っていた。

しかしそれを変えたのは祖父の事だった。

仕事で家を空ける事の多い父に、良く祖父の家へと預けられた。

祖母は既に他界しており、広い書斎のある家に祖父は一人で住んでいた。

祖父はいつも優しく分厚い本を読んでいた。

物静かで会話は多くは無かったから、自然に僕もまた本を読みだすのは当然の事だったと思う。

無限に広がる世界の中だけは、窮屈な日常を忘れられてすぐに没頭した。

そして本の話をする時だけ、祖父は饒舌になった。

それが嬉しかった。

それは僕が中学に上がっても勉強の合間に祖父と話す。

習慣になったそれは僕に多くの事を教えてくれた。

このまま所謂エリートコースなるものを進んで良いものか。

そう悩んでいた時に祖父は倒れた。

脳出血。それも広範であり命が有っただけでもありがたい。

医者の口から父と僕はそう聞いた。

何度も病室に通い、リハビリテーションという仕事を知った。

医者になるのも考えた。だけどもそれには長い時間がかかる。

それに直接的に患者へと関わるその姿を見て、この仕事を選ぼう。そう思った。

当然父は反発した。だけども僕はその時の自分の考えを曲げる事は出来無かった。最終的には父には許してもらえた。

ただ一つの条件は自立したらもう自分には関わるな。

そんなものだった。

その時には既に父との関係は崩れ去っており、都合が良いとさえ思った。

それからは就職を機に一度も家には帰っていない。

ただし祖父の元には何度も訪れていた。

セラピストとして自分にはまだ祖父に対しては何も出来ていない。

だけどもこの症例で学ぶ事が出来るのならば、何か手を思いつくかもしれない。

予後などもう知っている。だけどもそれを変えるには更に学ぶ事が必要な事はここで学ぶうちに知った。そしてその可能性も。

山吹薫は冷たい主任の指先を思い出す。

こんな事を話してみたいと思ったが、そんな感傷を伝える必要はないとも思う。

もし主任が僕の祖父を担当したなら何かを変える事が出来るのだろうか。

そんな非現実的な考えさえ浮かんでしまう。

山吹は一度首を振りその考えを捨てる。

いつまでも追い続けては肩を並べる事など出来ない。

だけどもその姿を追いかけている事自体が心地よく思えたりしている自分が不思議だった。

誰かと競い勝たなければいけない。そう小さい頃から教えられ今でもその考え方だけは常にそうだと感じている。

だけども・・・と思い山吹は想い考えるのをやめる事にした。

とにかく前に進む。行き着く先は分からないけれど、進まなければ。

山吹は一度眼を閉じる。そこには祖父の書斎と並べらた本、そして微笑む祖父の笑顔だけがぼんやりと浮かんでいた。

【これまでのあらすじ】

『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。』

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理学療法士。作家。つむぎ書房より『看取りのセラピスト』を出版。理学療法士としては、回復期から亜急性期を経て、ICUを中心に働き内部障害を中心に患者へと関わる。ご連絡はこちらからも→Xアカウント(旧Twitter)@tanakan56954581 他にも多くの小説ストックあります。

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