しっかしやっぱり眠いわねと、高橋美奈は目を擦りながら目の前に座る二人の新人を眺める。やっぱり朝は苦手だわと欠伸を漏らす。
しかし随分と眠そうですね。朝は苦手なんですか?
無理はいけないっす無理は!その美貌が勿体無い!
あはは。ありがとう、でも脳卒中を発症して、目を覚ましていく時には案外こんな気分かもね。
なんとも良い新人ちゃん達だと高橋は、山吹薫と進藤守を見てそう思う。良く自分で勉強もしている。
特に広範の脳卒中を来たした場合、中々目が覚めないという事が良くあるの。もちろん軽度だとそうではないけど、大なり小なり頭はぼんやりしてしまう。脳にダメージはある訳だしそれは当然かもね。
なので余計に早期の離床だったり、覚醒を遅らせる合併症の予防が必要な訳ですね。
そうなのよね。そしてどの程度目を覚ましてきているのかも評価していく事が必要なの。ただ目を開いている事だけが目を覚ましている、という訳でもないしね。
なるほど、認知機能や高次脳機能・・といった訳ですか?
そうそう。と高橋は相槌を打ちながら、主任ちゃんと薫ちゃんもこうやってお話していたのかしら?とそう思う。休暇明けに二人が随分と仲良くなっていた時には凄く驚いた。
認知機能と高次脳は互いに影響し合うからその鑑別もまた必要だけど、まずは発症前に認知症だったかどうかが一つの判断基準になるからそれはちゃんと情報収集しなきゃね。
確かにそうっすね。今のその状態が発症によって引き起こされたものか、そうでないのかはしっかりと分けて考えなければいけませんね。
他にもせん妄というものも考えておかないといけませんね。環境の変化でひどく混乱されているかもしれません。
随分と長い付き合いにはなったけど、あの子がこうやって他人と長く話すなんて見たこと無かったなぁ。と高橋は思う。昔は超合理主義人間だったのに。
急性期、特に発症直後なんかは治療の進行に合わせて認知面、特に覚醒状態という表現も多く使われるけど大きく変化してくるの。目が覚めて声が出て、こちらの指示に従う運動が出来て、その次にはちゃんと頭が働いているかを評価しないと中々次に進めないの。
周りの助言をしっかり聞いて、覚えておいて、判断しないと運動療法も中々進みませんものね。
それに点滴やらモニターやら沢山繋がれている中で、それが必要だと判断して覚えていなければ治療も進みませんものね。
最初はこのリハビリ室には主任ちゃんと私の二人きりだったのを思い出す。随分と昔になっちゃったけど、お互い歳をとったものねと何だか悲しくなる。
各検査で点数化する事も必要だけど、日々の会話の変化に注意する事も必要だからね。例えば今日がいつで、ここが何処で、さっき話していた事を覚えていたり、質問に対しての返答が的確かどうか、集中できているかどうか。計算や長い文章を混乱せずに話せるかも一つの変化を見るコツね。
確かに他の日常生活上でもそうですが、点数化出来ない微細な変化を知るコトもまた必要ですね。
そうそう。もちろん各検査で点数をつけるコトも周りの人に伝えるためにはすっごく重要。そして運動の麻痺が無くて、病院の生活には支障が無くても、動作的には自宅に帰れそうでも油断はしちゃだめ。
なるほど。高次脳機能障害の話ですね。
そう。と高橋は答えて主任ちゃんもこんな気分なのかしらと思う。だったら少し嬉しい。あの子の過去は知っているから尚更に。
詳しい話はまた今度するけれど、家に帰ると沢山の事を同時進行でやらなければいけないわよね。他にも車の運転といった最悪他者を巻き込んでしまう事故を起こしかねない行為もあるから、余計に評価しておく必要が有るの。
例えば、日時や場所といった見当識がしっかりしていても、物事に集中出来無くなったり、二つの事が出来無くなる。順序立てて物事を考えられ無くなったり、計算や書字、話したり話されたりする事が理解出来無くなる失語症もまた厄介ですね。
買い物や料理が出来無くなったり、人によっては仕事が出来無くなったりするからね。体に問題ないからはい退院!とはいかないの。でもその障害が分かっていたら社会的なサービスや支援に繋げられたりするからしっかりと評価する!
失調や失行といった運動機能に問題が無くても動かせなくなる事もありますもんね。ここら辺は苦手なのでまた教えてください。
えぇと山吹に返答しながら高橋は、山吹が抱き始めている感情や精神状態の正体を推察している自分に気が付き、これも職業病かしらと笑みを浮かべた。
そして大切なのは、特に発症初期では凄く悪い点数になったりするの。それで落ち込む人も沢山いるから、今はそうでもこれからはそうではない事を教える事ね。でも障害を受容する時期もあるからそこは皆んなでタイミングを図る必要があるから要注意。覚えておいてね。
確かに普段やっている評価でもテストの点数が悪かったとかそういうレベルの話じゃないからなぁ。ショックは受けるっすよね。
脳血管障害後の鬱もまた多いですから。そこらへんはまた相談させて頂きます。
うん。遠慮無くお願いね。でも一番は発症初期から自分が良くなっていっている事を感じてもらう事なの。それはもちろん私たちの腕の見せ所ね。
はい!と二人は揃えて返事をする。なんとも良い後輩ができたものだと高橋はなんだか嬉しく感じる。その気持ちはきっと優璃とも同じだろうとは思った。そして山吹は小さな声でよし。というと面を上げる。
それじゃ、楽しいリハビリテーションの時間です。
・・・なんだそりゃ?
ふふふ。どこかで聞いた言葉ね。
首を傾げる進藤と笑みを浮かべる高橋、そして耳まで真っ赤に赤く俯く山吹は、なんでもないです!とそう答えた。
山吹薫の覚え書 37
・身体機能に問題が無くても、高次脳機能の評価をしっかりと行い退院を判断していく
・テストの結果はあくまで流動的である事も伝える。しかし障害受容の時期に合わせて慎重に相談して進める。
・主任が居ないとペースが狂う。
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。』
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ちなみに千奈美さんの第一話はこちらから
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