麻痺の話 その③ 〜脳で起こる複雑な麻痺〜 【山吹薫の昔の話】

山吹薫の昔の話

少しずつリハビリ室に差し込む朝日も和らいできた。角度的に随分と日が上がってきたのだろうと山吹薫はそう思う。だけど相変わらずこの部屋には主任と二人だった。

山吹 薫
山吹 薫

なんだか纏めていると麻痺というのもすごく幅広いですね。

石峰 優璃
石峰 優璃

何事でもその言葉が何であるかは自分の中で整理しておかないとな。運動神経の良し悪しといった言葉のように世間で表現されるものと、医療現場で定義されている言葉は乖離する事もある。

それはそうだなと、すっかり目が覚めた様子の石峰優璃を見て山吹は思う。気怠げな瞳はどこへやら薄い笑みを浮かべながら石峰は続ける。

石峰 優璃
石峰 優璃

次はいよいよ中枢性の麻痺だな。いわゆる上位運動ニューロンの分野だ。ここでは同じ麻痺であっても、脊髄や末梢神経といった下位運動ニューロンでの麻痺とは少し考え方が違ってくる。

山吹 薫
山吹 薫

その下位運動ニューロンでは動きや感覚が鈍ったり、失われたりするのが主体でしたね。

石峰 優璃
石峰 優璃

それが今度は過剰になってしまうのも、主に脳血管障害後に起こる麻痺では見られる。そしてある意味単純では無くなってくる。

山吹 薫
山吹 薫

確かに運動だけではなく様々な感覚が統合されていますからね。高次脳機能障害もまた絡んできますから余計に・・・大変です。

正直苦手だな。と山吹は思う。定義が曖昧だと手を伸ばす場所も分からない。

石峰 優璃
石峰 優璃

一気にやろうとすると混乱するからな。まずは運動から行こうか。当然被殻出血っといった、運動に直接関与する場所の障害では運動を主体にした麻痺が出現する。

山吹 薫
山吹 薫

それぞれの役割が傷害される、ということですね。大脳基底核、脳の奥底で運動をコントロールする場所が障害されると、小脳もそうですね、運動のパフォーマンスが下がるといったことでしょうか。

石峰 優璃
石峰 優璃

もちろん障害が広範だと運動自体が出現しない弛緩性麻痺を呈する。文字通り手足が弛緩してしまうことだな。もう一つは痙性麻痺いって、力の微細なコントロールが出来ずに手では曲げる方に、足では伸ばす方に力が入ったまま抜けなくなる。

山吹 薫
山吹 薫

いわゆる脳血管障害の方の姿勢の様な、右ひじを曲げて手を握り、足は伸ばして爪先は下を向いたまま・・・といった事でしょうか。しかしどうしてそうなるのでしょうか・・・

そうさねぇ。と石峰は腕を組んで珍しく眉間に皺を寄せる。

石峰 優璃
石峰 優璃

もちろん原始的な運動は意識の底にプログラミングされている。一時的にそのコントロールが過度に抑制されたのかもしれないし、日常生活どう腕は曲げる方に強く、足では体を支えるために伸ばす方に力が入りやすい。

山吹 薫
山吹 薫

確かに筋肉の分布的にも大きな筋肉がありますし、どうにか力を入れようとしてそのコントロールが上手くいかずに、その姿勢になってしまうという事でしょうか?

石峰 優璃
石峰 優璃

代償動作を指導するリハビリから、麻痺自体に対してのアプローチが発展して、その姿勢で歩く人は減ってきたから、もしかしたらそうかもしれんな。そして適切な力の強さを調整する大脳基底核以外でも、例えば力を発揮するための動きを調整する小脳の出血では上手く力を発揮するための協調的な動きが阻害される。

山吹 薫
山吹 薫

この前やった手をあげる時の足や体の無意識的なサポートという事でしょうか。

そうだな。と石峰はそう返す。表情は硬く自らの思索の中に沈んでいくような。そんな表情だった。

石峰 優璃
石峰 優璃

他にも運動に関する場所でなくても発症初期は上手く力が出せなかったりする。そして脳の一番外側の障害では麻痺は少なくても、前頭葉なら自身の感情をコントロール出来なくなったり、頭頂葉では体は周囲の物体の構成や、後頭葉では人の顔は見えているのにそれが何であるかが分からなくなったり、側頭葉では言語や書字、記憶といった生活に必要な機能が失われる。そして感覚の中継点である視床では感覚の混乱が起き、ひどい時には視床痛といったひどい痛みが続く事もある。

山吹 薫
山吹 薫

ある意味、高次脳機能障害もその部分が担うはずの高次脳機能が麻痺してしまう。と考えられるかもしれませんね。

石峰 優璃
石峰 優璃

それはそうかもな。そして運動に話を戻すと運動野から脳幹を通り脊髄へと指令は続く。だけども脳幹の延髄で反対側に運動の指令が向かうから、例えば右の脳血管障害だと左の体に麻痺が出る。これは対麻痺だな。

脳の障害はどちらかというと、コントロールが上手く行かなくなるという事が問題だなと山吹は思う。

石峰 優璃
石峰 優璃

他にも散在したり広範な脳血管障害や延髄の外側が障害されると飲み込みの機能が麻痺する。まぁ大なり小なり脳血管障害には飲み込みの麻痺が付きまとう。

山吹 薫
山吹 薫

なので言語聴覚士さんが飲み込みの評価を行ってから食事がスタートするのですね。

石峰 優璃
石峰 優璃

肺炎を繰り返したらそれだけ機能も下がるからな。と言う風に末梢の障害と違い、中枢、特に上位運動ニューロンの障害では動きや感情、言葉や記憶、そして飲み込みと言った、ヒトがヒトとして生きるための制御機構が麻痺する。と言い換えても良いかもしれないね。

山吹 薫
山吹 薫

なるほど・・・・だからどこの部分が障害されているかは必ず確認しなければなりませんね。

そうだよ。と石峰は足を組み直し、薄い唇で笑みを作りながら山吹の顔をまっすぐと見る。その瞳は山吹の瞳を容易に射抜く。

山吹 薫
山吹 薫

どうしたんですか?

石峰 優璃
石峰 優璃

さて新人君。私はある時、左大脳基底核に脳出血を来したとする。

山吹 薫
山吹 薫

・・・そんな事は言わないでくださいよ。

石峰 優璃
石峰 優璃

そんな私に君は・・・何が出来る?

いたずらっぽく、そしてどこか真剣にも見えるその笑みで石峰は山吹をまっすぐと見つめてそう尋ねる。山吹は昨日集めた文献を見る。いったい何が僕に出来るのだろう。改めて山吹はそう考えた。

山吹薫の覚え書 30

・上位運動ニューロン、脳血管障害などでの麻痺は運動以外にも影響する。

・高次脳機能はヒトとしての機能が麻痺する。と言えるかもしれない。

・主任は時々縁起でもない事を言う。

【これまでのあらすじ】

『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。』

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理学療法士。作家。つむぎ書房より『看取りのセラピスト』を出版。理学療法士としては、回復期から亜急性期を経て、ICUを中心に働き内部障害を中心に患者へと関わる。ご連絡はこちらからも→Xアカウント(旧Twitter)@tanakan56954581 他にも多くの小説ストックあります。

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