静寂に包まれた休憩室に、沢尻悠は弾かれた頬に触れたまま、坪井咲夜が駆けて行った方を只見つめる。呆れた様に山吹薫は一度首を振ると、まぁ座れと沢尻に声をかけ、沢尻は何も言わずにそれに従う。
まぁ知らなかったならしょうがないが、彼女の母親は今COPDの急性増悪で入院中だ。そして病院への外線・・・意味は分かるだろう?
そうだね。本当に・・・知らなかった。
ふむと。山吹は腕を組む。何事もなければ良いが。そう思う。そして目の前のこの仕方がない後輩もまたどうにかせねばな。そんな事を考えた。
えぇと・・・そもそもCOPDの急性増悪・・・つまりはその先だな。呼吸不全という状態に陥る事もある。それはどういう事か分かるか?
・・・呼吸不全とは、呼吸機能障害のために動脈血ガス、つまりは動脈の中にある酸素や二酸化炭素だね、それが異常値を示し、そのために正常な呼吸などの機能を営む事が出来ない状態とされる。
辿々しく答えるその言葉にいつものような賑やかさはない。知らなかったとはいえ、こればっかりは運が悪かったのかもしれない。だからこそ今自分が何をするべきか。それは考え出す必要はあると山吹は思う。
そうだな。原因としては異物や痰といった気道を塞いでしまう状態、肺組織を著しく損傷する病態、そして呼吸筋の著しい弱化、呼吸が高度に抑制される事により生じるとされる。まぁ大きな交通外傷や広域の肺炎、そして高度な心不全によってもそれは生じる。
うん。ある意味、様々な疾患の終末像の一つかもしれないね。著しく換気や拡散、つまりは大気中の酸素を取り込んで体の中に上手く取り込む事が出来ないと、当然細胞ではエネルギーを作る事は出来ない。そしてそれは各種の臓器、そして脳にも及ぶ。脳は体の20%もの酸素を使用するとも言われるから僅かな時間でも障害は高度になる事もある。
そうツラツラと答える沢尻を見て流石に勉強しているなと山吹は息を吐く。そして話し方からするにどうやら少しずつ落ち着いてきてはいるらしい。
そして発症時、というか呼吸不全に陥ると激しい息切れが見られる。これは普段の運動時とは違って努力呼吸、胸郭の上を引き上げるように、そして首回りの筋力、横の胸鎖乳突筋だな。そこらが過剰に働きながらの非効率的な呼吸となる。
もはやゆっくりと深呼吸をするなど、効率的に呼吸を出来ない状態だね。引き込むように過剰な努力をしなければ呼吸を出来ない。というより体の中の酸素を賄えないって状態かな。また同時に、体の中に必要な酸素を賄えないという事は、血中の普段は酸素を結合して赤く見えるヘモグロビンもその色を失う。よって四肢の末端、毛細血管の広く分布する場所の皮膚は青みをかかってくる。チアノーゼってやつだね。
そして、脳が多くの酸素を必要とする事は、それを賄う事が出来ないとなると正常な認知機能、思考は障害され、錯乱したり逆に昏睡などの症状が見られる事がある。それほど重篤な状態だな。
そうだね。と沢尻は答える。そして首を上げてまっすぐと山吹を見る。
要約すると過剰に酸素の需要と供給が破綻すると言い換えてもいいかもね。俺の考えではあるけれど。気道を通って肺まで酸素を供給する、それを血中に流す、そして細胞で代謝し肺から二酸化炭素を排出する。それらのいずれか、もしくは複数が障害される。そういう訳だね。
あぁ、という事は気道の障害、肺の障害、そして心臓の疾患に伴う機能障害、高度な炎症や高エネルギー外傷に伴う酸素需要の過度な増加が一時的に生じて、適切な対処がされないと二酸化炭素が過度に体に溜まり呼吸が抑制される。そしてそれを必死に賄おうと呼吸筋の疲労を起こし、やがては・・・
重症化し死に至るという訳だね。だけどもそうおいそれと医療従事者が何もしない訳でも無いでしょ。急変時の対応に伴いすぐに酸素の吸入、もしくは集中治療室などでの人工呼吸器での適切な対処。それに伴って気道と呼吸を安定しつつ原因の究明と治療。そうやって救命のための医療は進んで行く。
そうだな。と山吹は答えつつ沢尻を見る。視線はまっすぐと自分を向いている。この子は流石に賢くそして器用だ。そして何よりも強かだからその点は羨ましいとそう思う。
何にしても療養上の緊急事態には変わりが無いよ。そしてその発見はやはり他の人が気が付く事が多い。例えば慢性的に呼吸機能が低下しているとその苦しさにも慣れる。そして気が付いた時には取り返しが付かない事だってある。
それらが全て慢性的に緩徐に進む訳では無いって事だね。体が弱っていたり高齢での広範な肺炎は容易に呼吸不全を起こすし、誤嚥性肺炎からの呼吸不全だって臨床では良く見る事ではあるから。
他にも高度の心不全の増悪だってそうだ。心臓から血が上手く全身に送り出せ無いという事は、その前に次々と溜まっていくという事だから、全身に溜まる前に肺にも溜まる。つまりは溺れるような状態から呼吸不全へと移行する事もあるし、肺の広範な炎症に伴い肺に水がたまると心臓から肺に血液を流せなくなり、過剰な努力を要する。その結果心不全へと移行する。肺性心というやつだな。
そしてその結果、全身の虚血に陥り脳を含む様々な心身の異常を来すという訳だね。だけどもそうなら無いように様々な治療手段がある。大切なのは異常を感じた時に人を集める事と、そこからの早急な行動。それに加えて・・・残された家族の心理的なケアや支えだね。
沢尻は一度そう頷く。そして全く!と腰に手を当てる。
言いたい事は分かったし、感謝はするけど慰め方にも、もっと他に方法は無いのかねぇ!?
まぁお前にはちょうど良いだろう。
いつだって思考を落ち着かせるのはルーチンワークと、前を向いた論理的な思考。全ての人に効果は無いが、かつて自分が学んだ事はこの仕方がない後輩にも良く聞いたようだ。山吹はフッと笑みを漏らした。
山吹薫の覚え書 51
・呼吸不全は終末像となる事も多い。そしてそれ事態ではなくその状態に至った原因がある。
・酸素療法や人工呼吸器での適切な対処が必要になる事も多い。よって異常を感じたらすぐに人を集める。
・やはりコイツは強かなやつだ。
【〜目次〜】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
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