山吹薫の独り言 その④ 〜過去の想いを思い出すと言う事〜

総論

冬の寒さはいつだって昔の話を連れてくる。

人気の無くなった休憩室で山吹薫は黒猫のマグカップを撫でた。

それはもう昔の話だ。

だけども今も続いている。

新人の頃は救急病院の救急科に所属していた。

もちろんそれは望んだ事であった。

正直な所セラピストといえど人間である。

そんな場所を志望するのは余程腕に覚えがあるか変人だ。

本当に変なわけではなく、癖が強いだけでそれ相応の実力もあると思う。

無論、他の病棟においても実力者は多くいる。

だけども激務の仲で嬉々としてその場所を選ぶのは正直少数だ。

戦争でいえば最前線へ喜んで向かうようなものだろう。

まぁ僕もその一人だったのだけども。

山吹は休憩室に流れる風を感じる。

「さぁ楽しいリハビリテーションの時間だ!」

かつての主任であり自身の指導者である人の声が聞こえる気がした。

そしてその周りで自分を新人と呼びつつ騒ぐ癖の強いスタッフの声もまた聞こえる。

確かに変人揃いだったと山吹は思う。その喧騒は今も心の中から離れない。

季節の変わり目には確かに患者は増える。実感ではなく事実として。

移り変わる景色の寒暖の差は体にとっては思ったよりも大きなストレスだ。

また体も動き辛くなる事からも高齢者の骨折もまた増える

そして救急車の音は鳴り止まず街を駆け巡る。

長く切り揃えられた黒髪を靡かせて先陣を切る指導者の後を追う。

そんな日々が懐かしく思うなどその時には全く思わなかった。

成人しているとは思えない小柄で童顔な彼女は誰よりも賢くそして楽しんでいた。そしてその姿を見ていると患者も自然と笑顔になった。

どんな重症であっても・・・である。

そしてその名は今の後輩と同じなのだから因果を感じると山吹は思う。

しかしその指導者は何一つ言い残す事なく姿を消した。

やがてチームもバラバラとなり、最後の一人であった僕もまた変わってしまったチームから姿を消して此処にいる。その時は同じ新人だった進藤もまたその一人だ。

あの人達は今何をしているのだろうか。

夜が長くなるにつれそんな事を考える時間も増えている。

不思議な事だと山吹は思う。

それはきっと夜のせいだろうとも山吹は思った。

季節は移り変わる。それもまたゆっくりと。

その中で自分自身は少しは成長したのかが疑問に思う。

今の姿を指導者が見たら何と言うか。

少しでも認めてくれるだろうか。

・・・いや。と山吹は首を横に振る。

「君の理論は正しいが間違っているな」

何度も言われたそんな言葉が脳裏に過る。振り返り様の流れる黒髪と共に。

そんな否定の言葉さえ今では聞いてみたい。

ふん。と山吹は鼻を鳴らす。自分らしくもない。

そしてもう一度黒猫のマグカップを撫でる

形のある思い出はもうこれしか無いが、形の無い思い出は今でも辺りを穏やかな淡い色で漂っている。

そう思った。

季節は巡るものだゆっくりと。

そして自分がまだ過去に囚われているのも身をもって感じる。

過去は過ぎ去るだけであって、時間が過ぎるからといって必ず乗り越えられるものでもない。

「優璃(ゆり)さん・・・」

一言だけ吐息と吐かれた言葉は静かに冷え切った休憩室の空気を、僅かな時間だけ漂ってどこかに消えていった。

また新しい年が始まる。どこからか吹いてくる氷のような風とともに。

両手で抱える黒猫のマグカップだけが暖かい温度を山吹の両手に伝えていた。

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