さてこの新人はどう答えるかな。岩水静は腕を組んだまま、右手を上げ下げしている山吹薫を見る。こういう後輩指導も中々面白いと感じた。
まず前頭葉と頭頂葉の境目にある運動野から、右手を挙げようとする指令が腕に伝わって・・
まだそれには早いな。その前に君は私の言葉を聞いただろう?その音は耳から入り聴神経を経由し側頭葉で統合される。それに私たちを見ているから視覚の情報も感情と記憶と統合されるな。
そこにはもちろん新人ちゃんの情動も関わるねぇ。大脳辺縁系が関与しつつ前頭葉も関わって「なんでこんな事をしなければならないんだろう?でも主任が言った事だし・・・」みたいな感じかなー。
それでも手を挙げようとするその意思が運動の発現のスタートラインだ。もし腕を挙げようとしなければ、出来ないと考えているならば、腕はそもそも挙がらない。
新人君は唇を歪めている。なんとも生意気な良い新人だと考えていたが、案外素直だなと岩水は笑みを浮かべる。
なるほどそういう事ですね。なら僕はいやいや乍ら手を挙げる事を決心し、前頭葉でどうやって手を上げるのかをプログラミングを行い手を挙げます。
嫌々ながら挙げるって所が、今君としての手を挙げる葛藤も含んで実に君というヒトらしくて良いねー
勢いよく挙げるのではなく葛藤しながらゆっくりと挙げるその仕草も良いな。動きは滑らかであるから、腕を上げている時の空気に触れる触覚や関節や筋肉からの感覚の情報を速やかに小脳に伝わり、脳幹の各種上下降する神経核の脊髄路もまた滑らかだ。
しかし君は今までの人生で何度も手を挙げただろう?その動きは既に運動学習されているから、動作自体は殆ど無意識的に行われているな。きっと小脳から前頭葉を通過し若干の修正が加わり、運動野から脊髄へと伝わっての事だと私は思うよ。
しかし主任も変わったものだと思う。自分が来た時はこんなに表情を和らげる事などなかった。それが良かったのだけどもと岩水は思う。
・・・続けます。運動野から大脳基底核を通る間、過剰な運動もしくは過少な運動にならないように、黒質からの刺激で働く大脳基底核で調整されつつ、脳幹を通り延髄で反対側へ交差しさらに下降を続けます。
その間にもかつては錐体外路と呼ばれていた、錐体路を取り巻く各神経系により常に情報は更新され統合され調整される。運動器のセンサーがそれぞれの情報を伝えるんだ。
その運動が適切かどうかは常に無意識的に評価されているからねー。過去の経験からそれが適切な運動かどうか。周囲の環境もまた視覚などの感覚から戻ってくるんだよー。天井がもし低かったらそんなにまっすぐ手を上げないでしょー?
それに新人の意識は挙げられた右手に向いているが、体幹はどうだ?地に着いた足は?その随意的な動きを行う時にも、不随意的な動きでその動作が成立している。体の隅々まで意識を向ける事は出来ないからな。
むぅと新人は口をへの字に曲げている。それを見て石峰は表情を和らげている。それはまるで幼子のようだと岩水はそう思う。なんとも豪胆でありそして何処か幼いと今更ながらそう感じた。
頭がパンクしそうですが・・・ただ手を挙げるにもこれほど頭を無意識に働かせているとは思いませんでしたよ。
まぁ習慣化された、というか運動学習された動作はプログラムとして存在するからそれほどストレスには成らない。しかし脳血管障害などでそのプログラムが破綻する、もしくはプログラムを遂行するための経路が破綻するともう一度学ばなければならない。
まぁ一度学んだ事を思い出すのだから、成長発達するほど長い期間は掛からないけど、それでも長い時間はかかるよねぇ。疾患の重症度にもよるから明確な期間は分からないし、
それ故、ただ腕を挙げるだけでも意思の力が大切だ!決して患者様が腕を上げてもらっている。なんて言い出さないようにしっかりと関わるんだ!
成長するのも何事もまずは意思の力だ。成長しようと思わなければ決して成長はしない。成長させてもらっていると感じた時点で頭打ちになる事もあると岩水は思う。それが伝われば良いのだがなとも考えた。
昨今様々な徒手療法はあるが、まずは覚醒し患者にしっかりと関わり、リハビリをしてもらう。ではなく自身でリハビリをする。という気持ちになるよう関わる事が必要だと思うよ。
それはそうですね。今になって分かりましたよ。
でも患者様からしたら藁をも縋る気持ちでリハビリをしている人も多いから、最初から突っぱねる事はしちゃだめだよー。
セラピストと患者、それは言葉であって同じヒトとヒトなのだからな!
わかってますよ。と新人はそっぽを向く。なんとも生意気な事だと岩水は笑みを浮かべる。新人はそれくらいの方が良いのだ。
さてという事で新しい患者様を受け持って貰おうと思う。全身状態が安定して今度一般病床に移る事になった。
ボクから引き継ぐ訳だからねー。しっかりと申し送りはするよー
・・・と言う事は・・・
でも君はいつもその人のカルテ見てるから、あんまり申し送る事はないのかなー
内海はゆっくりと体を曲げる。なんとも奇妙な動きをすると岩水は笑みを浮かべる。一転頬を上気させる山吹もまたまぁ単純なのだなと岩水は思う。
まずは一般病床で重症化した脳血管障害の患者様を診てみようか。
もちろん。望む所です!
その意気やよし!さぁ戦うのだ!
戦いませんよ・・・と眼を細める新人とそれを見て笑う指導者を見る。何がそう可笑しいのだろうか。岩水は巨大な首を傾げた。
山吹薫の覚え書 27
・運動の発現にはまず自分で動かす意思が必要。
・自分でその動作を行おうとしなければ、運動学習にはつながらない。
・少し居心地が良い。
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。』
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