ふむふむ。白波百合は休憩室でその文献を並べてみる。明日は左の大腿骨頸部骨折の女性のオペ日だ。そしてそこから自分のリハビリが始まる。がんばるっすと両手を掲げて拳を握る。
どうしたんだ?奇妙な踊りを踊って。
踊りじゃないっす!気合の表れっす!
そうか。と山吹薫はいつものように文献へと目を落とす。乙女心の分からない先輩を持つと大変っす。と白波が口を尖らせていると扉の開く音がする。
おつかれさーん!みんな元気ー?みんなの沢尻さんだよー!
なんだ。また来たのか。最近お前よく来るな。
まぁまぁ。是非とも沢尻さんにも教えてもらいたいっすよー!せっかくだし。
おっお疲れ様です山吹さん!沢尻さんに誘われてご迷惑かと思いましたがこれも良い機会だと思い・・・
なにやらモゴモゴと口をすぼめて語る桜井玲奈の隣で、沢尻悠はいいじゃーん。とヘラヘラと口を緩ませる。これは心強い援軍っす!と白波はぎゅっと拳を握る。
さぁさぁみんなで大腿骨頸部骨折のお勉強っす!
なんだやたらと気合が入っているじゃないか。それではそもそも大腿骨について沢尻さんにご教授頂きますかね。
なにさ藪から棒にー!まぁ良いけどさー!そもそも大腿骨はもちろん太ももにある骨のことだねー。長い長骨という分類で体を支える重要な要の一つだよー。そして大腿骨が骨盤とつながる大腿骨骨頭、そしてそこから頸部が外に広がり大転子と呼ばれる膨らみにつながるのさ。そして下へと細くしっかりと長く伸びるのが大腿骨、その下には膝がつながるのさー。
そしてそれは少し骨頭が前に捻れているのですの。そして骨頭の頸部があることで足を円滑に前に運ぶことが出来ると思うのですわ。そして周囲にたくさんの筋肉が有ることで可動性と固定性の両立が図れているのですの。まっすぐとつながっていると、なかなかそうもいきませんわ。
我の出番来たりと急に語り出した桜井を見て、これは負けれらねいっすねと白波は鼻を一つ鳴らす。
ふむふむ。そしてその骨の内部には、特に立っている時はその頸部を中心に骨盤にかけて力学的なストレスがかかり易いんすよね!そしてその内部には掛かる応力、ストレスに抗するために骨梁と呼ばれるしっかりとした海綿質の橋、みたいなのがそれぞれストレスに拮抗するように5~6層走っていてしっかりと体を支えているっす!
ほう。ちょっとは勉強したようだな。そしてそれに加えて強力な靭帯が股関節を支えている。その外には大臀筋に代表される強力な筋が可動性と固定性を両立している。人がかつて四足歩行の時から二足歩行にかけて進化する上で大きく変化した場所の一つだと思うよ。
こう私(わたくし)達の肘を曲げて丸めた手首も曲げると、丸めた手首が骨頭、そして手首が頸部、手首の関節が大転子部、そして下につながる前腕が大腿骨という風に見えますわ。
なにそれ可愛いー!そうそう。だからこの頸部は立っていると体重が掛かり易い場所だと言えるね。そして高齢になればなるほど転倒した際によく折れてしまう。こう横向きに倒れるとしてストレスが頸部を丁度通って体重が掛かる部分でもあるから余計に折れる。そして骨粗鬆症を患い易い高齢の女性に多く起きるけど、だからと言って若い人に起きない訳でもないさー。
私は至って真面目ですわ!と眉を吊り上げる桜井に沢尻はまぁまぁと両手をひらひらとさせる。沢尻さんにはやたらと強気っすねと白波は何だかおかしくなった。
そしてその頸部という場所が最も厄介な点っすよね。そして立っている時には常にこう、大腿骨の頸部を縦断するようにストレスが掛かっているっす。そしてここは股関節を構成する場所でもあるっすから、関節胞に包まれている場所っす!と言う事は外骨膜という骨が癒合するのに必要な部分が無いっす!
ふん。ちゃんと勉強はしているようですわね。それにですわ。大腿動脈が足先まで進むうちに、骨頭や頸部の骨を栄養する回旋動脈という細い動脈が分岐して栄養しますの。そしてその動脈が断たれ易く、断たれてしまうとその骨を栄養できなくなりますの。骨も体の一部で再生するには栄養が必要ですわ。よってそれも大腿骨の頸部骨折が癒合し難い良くある割には難しい骨折と言われる所以ですの。
ふーん!盛り上がって来たねー!そうそう一つはストレスがかかり易い場所、そして関節胞の中で外骨膜が無い、そこを栄養する回旋動脈が損傷しやすく栄養が滞る。だからそのままにしておくと、くっつく事は難しいのさー!
もうちょっと静かに話は出来無いのかね。それにそのままだと偽関節と呼ばれる骨同士がくっつく事なく固まってしまい、それこそ偽の関節を作る状態に陥る。そして栄養の滞った骨頭の部分が壊死する大腿骨頭壊死を引き起こす。そして後に骨頭が潰れてくる遅発性骨頭陥没を引き起こす。これは重大な合併症の一つだと僕は思うよ
白波は受け持つ患者様の事を思い出す。まだ50代と若いのに不幸な事故で左の大腿骨の頸部を骨折してしまった。そして夫とは離婚し、子供はまだ高校生だ。そう考えるとやはり歩行の獲得は少なくとも必須だと思う。
そういった理由で特に大腿骨頸部骨折は骨頭、特に頸部の部分を人工のものに変える人工骨頭置換術が選択されるんすよね!そうじゃ無いと歩けなくなるかもしれ無いっすから・・・
それがメジャーになる前の遠い昔には牽引などで整復し、骨がくっつくのを待った時代もあったらしいがな。それでもやはり成績は芳しくなかったようだ。
それにくっつくまでは歩け無いから凄く長い時間横になっていなければならなかったの。そして肺炎や深部静脈血栓などの重篤な合併症も少なくなかったらしいね。
そうやって今の術後早期のリハビリが発展してきたのですわね。先人の築き上げたエビデンスは決して無駄してはなりませんわ。
その通りっす。と白波は答える。学んできたものは次に繋いでいかなければならない。白波の耳の奥には「こんなになって情けない・・・」とポツリと呟いた患者様の声がいつまでも残っていた。
白波百合のノート 95
・大腿骨頸部は骨折すると非常に癒合がし難い場所。そのままにしておくと骨同士がくっつかない偽関節や骨頭が壊死してしまう骨頭壊死、そして潰れる遅発性骨頭陥没を引き起こす。
・大腿骨頸部骨折には殆ど多く人工骨頭置換術が選択される。そして術後できるだけ早期よりリハビリをスタートする。
・あの人のためにしっかりと勉強するっす!もう一人では無いっす!
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【これまでの話 その①】
【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】
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