山吹薫の思い出 その⑥ 〜ICUでのリハビリテーション〜

総論

よし・・・と山吹薫は大きく息を吸い込む。

目の前には主任である石峰優璃が居る。その成人しているか怪しいほどの童顔に化粧っ気のない顔立ち、頬は僅かに紅色で細い唇は薄いピンク色をしている。陶器の西洋人形のように目鼻立ちはしっかりしており、その表情のままで尊大に彼女は笑みを浮かべる。

「なんだ新人!そんなに緊張して!珍しいな!」

「そりゃそうでしょう。今までICU(集中治療室)でリハビリする事なんか、なかったんですから。」

「まぁ最初は誰にでもある!まずは介入前に他職種でのカンファレンスを行って治療方針を決める。もちろんその治療方針にもリハビリをどう進めるかも含まれるから十分に聞いておけ」

はい。と両手を腰に当てて身の丈は自分の肩ほどしかない小柄な主任に山吹は一度頷く。

そして程なくして周りを取り囲むように病室が並ぶその中央に、多くの人が集まり始める。

心臓外科、循環器内科、そして救急医と集中治療医、他にも看護師はもちろんの事、臨床工学技士や相談員、検査技師まで集まっている。その中で主任の後ろに山吹も並ぶ。

昂揚する気分の反面、僅かに足はすくむ。そして大きなディスプレイの前に座る集中治療医が口を開く。

「あー・・・この方は昨晩夜間帯に入院された方です。高エネルギー外傷でバイクと普通乗用車の事故。スピードは60キロ程で正面ですね。CT上は右多発肋骨骨折、肺挫傷・・・血胸も多く肝損傷も重度、そして右下腿のアンプタ、接触時より出血性ショックで挿管後搬送、アンプタに対して断端形成後に右の血胸進んでいるから今日からドレーン開始、肺はやや繊維化、結構なタバコ吸いだなこりゃ。大量輸液後でバイタル上はショックは脱しているかもだが、高度の肝損傷だから注意で・・・それに・・・」

淡々と冷静に綴られる重篤な病態。それぞれ一つだけでも生命に関することなのにと山吹は目を回す。

あらかじめカルテを読んで病態を見て来たのにも関わらずに僅か数時間で目まぐるしくその状態は変わっている。そしてその治療方針もだ。そしてそのメガネを掛けた如何にも神経質そうな集中治療医は石峰を見て、

「あとはリハビリで何とかして無気肺予防を頼むよ。左肺はまだなんとか生きてるから」

「えぇ了解しました。なら早速起こして呼吸状態を見ておきましょう」

頼むよと声を掛けられ、はいはーい!と石峰は慣れたようにそう答える。

なぜそう簡単に返答できるのだと山吹だけ目をグルグルと回している。

石峰は山吹を振り返り、一度笑みを浮かべると山吹の胸をドンと一度叩く。

「どうした?いつもの仏頂面からは非常に逸脱している。」

「そういう訳ではありませんが・・・すみません。」

「大丈夫だ。私が居るだろう」

流石にに黒く長い髪は短く纏められているが、僅かに紅をさした頬をのままに笑みを浮かべる表情は、まるで少女のようだと山吹は思う。

「さぁ楽しいリハビリテーションの時間だな。」

そう言いつつ石峰は振り返り病室へと足を進める。

やるしかない!

山吹もまた大きく息を吸い込んで病室へと向かうのだった。

僅か数メートルの病室までの道のりが山吹には酷く長く感じた。

その間に先ほどの集中治療医の言葉を頭の中で反芻する。

リスク管理も何も・・・僕は何をすれば良い?

そう考えている内に病室へと辿り着き山吹は初めて患者を見る。

挿管された口からは大きな人工呼吸器へと管が伸びていた。

そして右の首からは中心静脈へ伸びる点滴が、左手には動脈に差し込まれたAラインが僅かに赤みを帯びている。

右手の末梢へ多くの釣られた輸液からルートがが伸びていて、鼻からは管が長く長くと胃管へと繋がっていた。尿道へ繋がるバルーンからは赤い血尿が溜まり、そして右の肺に差し込まれたドレーンにもまた多量の血が溜まっている。そして右の膝から下は無く、何かの処置の後だろうか、零れた浸出液と血液が僅かにベッドを汚していた。

ここまで重症な人はまだ見た事ないと山吹は一度喉を鳴らす。

「あー今日は石峰さんっすかー!?参ったなーいっつも無茶させるから」

そう声を掛けてきたのは中肉中背・・・よりもやや丸っこい男性の看護師だった。髪はやや茶色に染まっており愛嬌のある丸い目鼻をしている。山吹を見上げるくらいの背丈でなんだか言葉尻は軽い。

「信頼の証だよ。そして主治医よりのオーダーは、無気肺予防、まぁこれほどの炎症だから臥位のままは嫌だな。すぐにARDSになりそうだ。それに思ったよりも腹はフラットだし、循環も崩れていないようだ。むしろボリュームが過多な今の方が起こせるかもな。それに今日は助手も連れてきた。」

「おー貴重な男手だね!よろしくー」

と差し出された手に山吹は、はぁと手を合わせる。そしてちょっとリーダーに報告してきますーと駆け出した男の看護師を見送り、山吹は視線を石峰へと戻す。

そこには先ほどまでの少女のような主任と違い、冷たく深く、僅かにでも触れたら切れてしまいそうな程に研ぎ澄まされた、凍った陶器のような主任がいた。

「それで新人君の初見は?」

「えぇと・・・医師によれば・・・」

「違う。君の初見だ」

山吹を一度も見ようとせずに放たれる言葉は冷たく、そして感情はそこには無いように感じる。

「えぇと高エネルギー外傷の方で・・右下腿を・・・」

「間違ってはないが正しくは無い。切断され術後の右下腿も問題だが、それはこれからの事だ。今は救命。生きるためのリハビリをするんだ。気道はどうだ?挿管され開通しているだろう。なら上気道閉塞のリスクは避けられるな。自発呼吸も僅かにだがある。換気量は少なく、血胸は多いがドレーン管理中だな。肺の繊維化はまずまず、肺のコンプライアンスも低下してる。それにフレイルチェストは無いようだが胸郭の動きは明らかに悪い。P/F比は230と・・・まぁまだ頑張れるな。肝損傷による腹部への大量出血からのACS(腹部コンパートメント症候群)では無さそうだったが、それでもその中で動かすんだ注意をしなければなら無い。」

はい・・・としか山吹は言葉を出せない。主任の言葉、おそらく主任としては分かりやすく説明しているつもりの、彼女の臨床思考過程に自分は着いていくので必死だ。

「そして循環動態、大量輸液後で血圧はまずまず取れている。エコー上は心機能が悪くなかったからそれは不幸中の幸いだ。心嚢液もなく心タンポ(心タンポテナーぜ)のリスクはとりあえず置いておけるな。ややレート(心拍数)は走っているがまぁそうだろう。Dダイマーは過剰に上がっているがこれほどの外傷後だからな。CRPはまだ上がり切って無いし、腎機能もまだ保たれているな。ただCKは異常高値だからAKI(急性腎不全)もまたリスクの一つ、Hb(ヘモグロビン)もまずまず。それ以上に無気肺からの敗血症性ショックへの移行、もしくは低酸素症を含む全身状態の悪化が必要だ。それに鎮静はまずまず効いているから覚醒はRASS-3~4くらい。やや過鎮静だな。リハビリの刺激でどう移行するか評価してRASS-1~2位に調整できれば良いな。あと運動負荷の刺激でどう動くかは分からんからデバイスには注意だ。事故抜管は死につながると思え。今回のリハビリのターゲットは、下側肺症候群予防のための背面の解放、鎮静度合いの評価、およびその後の呼吸器ウィーニングに向けてという感じだな。まぁ詳しい説明は後から、カルテを見ながらやるよ。だから新人君は私に言われるように動いてくれ。」

はい!としか答える事しか出来無いと山吹は思った。

ここでは自分は悔しいけれどマンパワー以上の役割はこなせないと思う。それは今まで自分なりにだけどあの救急科の中で勉強を積んできたのに酷く悔しいと思った。だけども言い返すことは出来ない。それほどの知識も技術もまだ無い。

「そして何よりICUでのリハビリではマンパワーをどれだけ集めるのも重要な介入方法の一つとなる。君は私にとって重要だ。まずはそれに徹してくれ。」

自分の感情を読んようにそう言いつつ、デバイスの位置と各種のデータ、視診や聴診、つまりはフィジカルアセスメントを続けている。そして石峰は山吹に向かって口を開く。

「客観的な情報と主観的な情報を常に照らし合わさなければならない。目に見えるリスクとそうでないリスクがある。それに高エネルギー外傷後は主たる症状や状態にマスクされて他の外傷が隠されていることも多い。擦過傷の位置、打撲傷の位置からそれもまた考える。そして外傷の過程からどこにどういうストレスが掛かり受傷したかも考えるかも必要だ。この点ではスポーツ外傷と同じかもな」

「似てるようでまったく違いますよ。」

そうだな。と主任は表情も変えずにそう答える。いつもの様な尊大な笑みは無い。

「すみませーん!それじゃぁ起こしましょうか!」

と戻って来た男性の看護師にそうだなと主任は答えた。

「じゃぁ軽くブリーフィングしておこうか。とりあえずはデバイスの調整を行う。それで起こして行くのだが看護師さんは挿管チューブを、刺激でどう動くかは分からんから注意だな。そして新人君は後方から体を支えつつCVルートと胸啌ドレーン位置のフォローを頼むよ。私は前方からモニタリングと体を支える。段階的にヘッドアップし、50度程度に達した後に臀部を支点に体を回して端坐位とする。そこから過度な換気量と下肢下垂に以外の要因と考えられる急激な血圧の低下、不穏により身体の安全が守られないと考えられた時にはすぐに寝かす。聴診器は手の届く位置でデバイスの動線に掛からないように置いて置いてくれ。」

はい!と看護師と山吹は返事をする。これほど慎重に、そして大胆に端座位をとった事があっただろうかと山吹は思う。

そして何故か気分は高揚している。多分今この人に何も出来なければ命を失うかもしれない。そして何かできれば命を失わないかもしれない。

今自分たちは多くの医療スタッフと此処に居る。その中でリハビリに与えられた使命を果たそうとしている。

「さぁ。ただ生かす為ではない、この人が生きる為のリハビリをしよう。」

そう言って病室に入る主任の後を追う。距離にしては一歩半くらいなのにその距離は果てしなく遠い。そんな気持ちだった。

・・・・ガタっと音を立ててカウンターチェアーが揺れる。

身を起こした山吹は辺りを見渡す。そこはICUではなくBARの一角であり、目の前にはすっかりと氷が溶け色を薄めた琥珀色の液体がある。

夢か・・・と山吹は一度首を振る。

「なんだ随分とお疲れだったじゃないか。そんなに寝ぼけて何の夢を見ていたんだ?」

そう声を掛けるのはいつもの制服とは違い、バータンダーの様相をした進藤守だった。自分よりもややがっちりとした体のままに、背後にある極彩飾の酒棚を逆光に静かにグラスを磨いている。

「初めて・・主任と一緒にICUでリハビリをした時の夢を見ていたよ」

「それは大層な夢だな。あの後はお前、廃人のように真っ白になっていたな」

その時の初めての端座位は上手くいった。その後も経過は幸いにも良好であった事もまた覚えている。

「そりゃな。モニターばかり見るな患者を診ろ、今視線は何処にあるんだ、思考を止めるな常に状態は変化しているぞ、君が考えている事は安静時の事だ、運動時にそれはどう変化する。手をどかせ動線を考えろ。次に何をするかは状態の変化から考える・・・・いろいろ言われたよ。今でも覚えている。」

そうか。と進藤は僅かに笑みを漏らす。進藤もまた昔の事を思い出している。指導と共に冷静に動く主任の姿。必死にそして冷静に患者を診ていた。その姿は今でも鮮明に覚えている。その一歩半よりも遥かに遠いその距離感もまた今でもまだ鮮明に感じている。

「なぁ・・・僕は主任のようになれるか?」

その問いには進藤は答えない。だけどもそれが答えだと山吹には分かる。

静かな店内には古めかしい僅かにノイズの混じるジャズが流れている。

遥か昔に過ぎ去った昔はその音色に沿いながらゆっくりと、静かにかつての喧騒と高揚、そして現在の喪失と羨望が辺りを漂っていた。

それは今も尚続く思い出の水面でそっと漂っていた。

※今回提示した症状の方は実在には存在しません。今回のお話だけの架空の患者様であり実在の患者様ではございません事をご理解ください。

【〜目次〜】

『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。

【Tnakanとあまみーのセラピスト達の学べる雑談ラジオ!をやってみた件について】

『えっ!?マジでやるの!?雑談で学ぶ運動処方とか!!』【Tnakanとあまみーのセラピスト達の学べる雑談ラジオ!をやってみた件について】

【時間がない人にお勧めのブログまとめシリーズ!】

【ウチ⭐︎セラ! 〜いまさら聞けないリハビリの話〜】

コメント

タイトルとURLをコピーしました