白波百合の頭の中 その⑥ 〜急変を初めて知った日〜

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急変。それはとっても自分にとっては特別な意味を持つ。

上代葉月が肩に触れる温度は暖かい、何とか場を温めようとする

坪井咲夜の暖かさも感じる。

そして多分気付いていない山吹薫・・・先輩の眼差しは

ちょっとだけ寂しい。

そう思いつつ頭の中はずっと前のあの日に戻るのを白波は感じる。

そこは患者様の病室だった。

寂しく灯るモニターは時折アラームを鳴らす。

そして酸素マスクとリザーバーと呼ばれる透明の袋で何とか呼吸をする自分の患者様を、右手に持った束の文献をぎゅっと握り締めながら眺めていた。

今はじっと目を閉じて苦しそうに呼吸をしている。

昨日までは自分と一緒に車椅子に起きる練習を頑張っていた。

その声はもう今は聞こえない。声を掛けることすら出来ない。

急変した日、自分が何をできるか。

それを必死に遅くまで探した。

数々の急性期でのリハビリに関する文献を集めて、何かできるかもしれない。

そう思いプリセプターに直訴に行った。

何故なら急変直後に上司からリハビリ中止との指示があり、

自分がこの方にリハビリを行うことが出来なくなった。

1年目の自分ではそれを覆す事は出来ない。

だけどもこんなに出来る事がある。それを伝えに。

幸いにも主治医からは離床を進めるように指示が出ている。

だけども・・・

「おい。これはなんだ?」

プリセプターの言葉は酷く冷たいものだった。じとっとした長い髪は刺々しくまとめられている。また肥満としか形容出来ない体つきと、じとっとした人を舐めるように見るその瞳。あまり考えたくはないけれど、自分はこの人が嫌いだった。仕事とはいえ同じ人間だから仕方がないけれど、この一年、この人から何か臨床に関して教えてもらった事は無い。受けるのは指摘だけだった。

「現在この方は上気道閉塞後で無事気道も開通しているっすから、今度は呼吸リハが必要っす!さらに合併症予防が必要っす!」

ふん。とそのプリセプターは自分が纏めた文献をろくに読みもせずにデスクに落とした。

「で?お前に責任が取れんの?それに1年目のお前に出来る訳無いだろ。」

これには白波は息を飲む事しか出来なかった。確かにそれはそうだ。言い返せ無いというのが本音だった。悔しかった。

「それに急変してんだから状態が悪いだろ。リハビリできる状態じゃないんだから。」

続けてプリセプターは面倒臭そうに視線を逸らしてそう続ける。

「でっでも!主治医よりリハビリの指示はまだ出てるっす!」

「だからリハビリできる状態じゃないって言ってんだろ。落ち着くまではリハビリのスケジュール組め無いから、こっちだって困ってんだよ。」

吐き捨てるようなその言葉に、急変する前の患者様の姿が浮かぶ。

それでもと食い下がろうとも、その為の言葉がうかばない。悔しくて、どうしようもなくて、白波は目頭が熱くなるのを感じる。決して泣くもんか。そうとだけ思った。

白波はせめて毅然と頭を上げて、失礼しましたと一言だけ伝え、その場を後にする。プリセプター達が自分の後ろ姿の向こう側で、何やら互いに笑い合うのが聞こえた。

もう嫌だ。

そう思いつつも自分の足は自然と急変した患者様の元に向かっていた。

そして今自分はリハビリで介入する事も許されずに、唯心配そうに患者様を見つめる事しかできない。

何の為にセラピストになったのか、その意味も理由も今は混乱した頭の中ではわからない。

自分がちゃんとしていれば良かったんすかね・・・

その気持ちだけは答えも出ないままに中空を彷徨っていた。

その時、病室の外からふと声が聞こえて、白波は恐る恐る顔を出す。

そこには自分のプリセプターの正面に、緩くウェーブのかかる栗色の髪と緑色のメガネ、痩身でどこか神経質そうなリハビリスタッフが立っているのが見えた。

「それで・・・何でリハビリに入ってないんだ?」

少し低いよく通る声に自分のプリセプターは少し肩を竦めている。一応の管理者である自分のプリセプターをこんなに萎縮させるなんて誰だろうと一度首を傾げた。そして思い出したのは回復期病棟が主体のうちの病院にある僅かばかりに存在する一般病床のリハスタッフだったとはっと目を丸める。

「いやだから・・・山吹くん。その患者は急変してだな・・・」

「上気道閉塞後、高炭酸ガス血症に伴う意識障害及び心肺停止、ROSCまでも2-3サイクルじゃ無いか。覚醒状態の評価や肺炎も呈している。よって少なくとも神経所見の精査と呼吸リハビリが必要だ。それに寝たきりにして下側肺障害及び、換気血流比の変化、強い炎症症状が出てるだろう?むやみにサイトカインストームを助長させARDSに近い状態じゃないか。何を考えている?」

しどろもどろのプリセプターに矢継ぎ早に突き刺すように放たれる言葉は、自分はほとんどが理解できない。だけどもこの人だけは自分と同じようにこの患者様をどうにかしようとしてくれている。それは感じた。

「とにかく別の病棟に口を出すな。そういうルールだろう。この病棟のスケジュールは俺が決める。いいな?」

そう理由にもならない理由を吐いて、プリセプターはどこかへ消えた。苦虫を噛み潰したよりも更に苦い顔をして、そのリハスタッフはナースステーションへと向かう。自然に自分の瞳はその人を追う。

すると直ぐにベテランの看護師達と共に電子カルテを開いて何やら話し始めている。いつしかそこに医師も加わっている。

病棟をまたぐと勝手にはリハビリに入れない。自分の病院のルールはそうだ。だけどもその人は病棟を動かそうとしている。

そして多分自分の知らない言葉で、多分同じ視点を共有出来ない人たちと対等以上に話している。

その後ろ姿を眺めながら白波は唯々、目を丸めていた。

こういうリハビリスタッフも居るんだ。

心の奥で何か温かい液体のような物がゆっくりと満ちていく。

その後ろ姿をじっと眺めながら白波は自分の両手をぎゅっと握った。

「どうしたんだ?またそんな顔をして、腹でも空いたのか?」

白波の頭の中は今の休憩室へと引き戻される。

山吹薫は首を傾げつつ黒猫のマグカップを傾ける。

最初に見かけた表情と比べると今は随分と柔らかい。

「あんなぁ。女の子にそんな言葉使いして、いつかホンマに訴えられんで?」

坪井の言葉に一度表情を固める山吹に白波は笑みを浮かべる。いつか憧れた後ろ姿は、今は直ぐ目の前に居る。

「何でもないっす!さっ続きをやるっすよ!」

ふん。と視線を外しつつも自分のことを気にしているっすね。と山吹の表情で白波はそう感じる。

「ねぇ。無理しないでね。」

上代の言葉に白波はうっすと答える。

そして、多分今自分がこの病棟に居るのもそれが有ったからなんすよね。

でもこれはしばらく言わないでおこう。

言うべき時はきっと先輩と同じ目線でリハビリが出来る時なのだからと白波は思う。

そして白波百合は山吹薫の言葉がいっぱいに詰まったノートを再び広げた。

【〜目次〜】

『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。

【総集編!!】

【これまでの話 その①】

【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】

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