山吹薫の独り言 その② 〜何かを誰かに教えるという行為〜

総論

白波が席を立ち、休憩室を後にするとやっと静かになる。

どこまで読んだか忘れてしまったな。

山吹は文献をデスクの端に置き、すっかり冷えたコーヒーを口元に運んだ。

白波は飽きもせずに毎日この休憩室に足を運んでくる。

驚いたり、凹んだり、喜んだり、よくもまぁ、表情に沢山のバリエーションがあるものだと正直驚く。

そして教えていて思うのは、本当に教えられているのか

という事だ。

正直、僕は全てを知っている訳ではない、分からない事もあるし日々新しい事を学んでいる

それでも足りない。何が足りないという事が明確ではないほど足りない。

悔しいけれど、正直楽しくも感じるから不思議だ。

そして全てのセラピストがそうではない事も嫌という程に知っている。

学ばなければならない事は分かっていても、日々に忙殺されるとそれすら儘ならない。

そしてやがて多くのセラピストが学ぶのを辞めてしまう。

その点、白波は良くやっていると思う。口には出さないけれど。

僕たちは学ばなければならない。医療従事者として働くならば当然だ。

そして、後輩や部下を持ったならば、それを教えなければならない

今の僕のように。多少煩わしくてもだ。

後輩の成長はそのまま業務量を減らし、そのまま患者へと還元される。

そのためにも教えなければならない。

それに僕は、後輩に一生残る後悔を背負わせないために教えなければならない。

だけどもそれは難しい。本当に難しいと最近は特にそう思う。

前に教えていた時はそうではなかった。
あまり意識しなかっただけ、かもしれないだけかもしれないが。

正直知識を与えるのは簡単だ。

今まで学んだ事をツラツラと話すだけで良い。だけどもそれはテキストを渡すのと大して変わらない。

そして、知識を教えるのは難しい。与えただけが結果ではなく、相手がそれを知識として身につける事が必要だからだ。

そこから、教えた結果、後輩が育つ事で初めて教育と言えるが、それはもっと難しい。

知識を身につけ臨床で生かし、人として、医療従事者として育つ。

そこには知識や技術だけでは無くが入ってくる。正しい主観と今まで学んだ経験を知識に添えて、相手の心の中に落とし込まなければ成らない。

そしてそれは指導者の経験による主観である訳だから、必ずしも正しいとは限らない

正しい事は教えたくない。だけども正しいと考えている事は伝えたい。

難しいものだと改めて考えてみて思う。

結局のところ、後輩を教えて育てる。のでは無く、教えた結果として育っていく。という事が正しいのかもしれない。

むしろ教える。といった事自体が今の僕にとっては、おこがましい行為なのかもしれない。

結局のところ堂々巡りだ。

かつての自分の指導者は何を考えていたのか。

最近そればかり考えている。

知識は教えてくれた。だけども人としてだとか、セラピストとしてだとか、漠然とした言葉は一度も言わなかった。

そして僕はその指導者を見ていた。そして今思うとその姿に憧れていたのだと思う。

そして今の僕がいる。その姿に近付けたとは思えないけれど。

果たして白波はどうなのだろうか。まぁどうでも良いのだけど。

そこまで考えて、再びコーヒーを口に近付ける。最後の雫はゆっくりとマグカップを伝う。

答えの無い問いに答えを出す事なんかはできないが、指針だけは得る事はできる。そしてそれに導く事が指導すると言う事。・・・なのかもしれない。

せめて今まで僕が学んできた事を伝えよう。そして僕のリハビリテーションを見せよう。

そこからどう育つのかは・・・本人次第だ。

なんて無責任な指針だと苦笑しながら山吹もまた席を立つ。

だけども、伝える事が出来ても、伝わらない事など山ほどある。だから見せるしかないのだ

少しだけ、白波が指導者として後輩に指導している姿を想像した。

僕とは違って、少なくとも後輩には好かれていそうだ。と可笑しくなる。

少しだけ、あの阿呆な指導者がここに居たらと考えた。

少なくとも偉そうには出来ないな。と可笑しくなった。

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