いつもと違う業務後の風景。いつもなら目の前には先輩がいるんすよね。と白波は思う。だけども今は、今だけは先輩に話を聞く訳にはいけない気がしていた。
さて話の続きだが、ベッド上で寝たきりになると体はその生活に順応していく事は話したね。例えば以前は外出も多くても、次第に家の中の生活になり、そしてベッド上の生活になるように・・・順々に人の活動性はその時の生活に順応する。
でもそれって年齢を重ねたらある意味自然な事なんとちゃいます?
そうだな。生きている以上死は避けられない。ある意味自然な事だ。だけどもそうじゃない時もある。百合ちゃん・・・分かるよね?
何か病気を患って、それがキッカケで寝たきりになってしまう事っすよね。
進藤さんも多分知ってるんすね。言葉に出さないだけで、おそらく先輩も・・・そう白波は思った。
そうだ。病気が治るまで安静に。とは最早昔々のお伽噺だ。もちろんそうせざるを得ない時もある。だけどもそうしないために俺等はリハビリを行う。それに筋力や体力が低下するだけでもない。
例えばどんな事なんー?
・・・早くも猫を被るのを止めたっすね・・・
先ず考えるのは重力の影響だね。人は重力に逆らって生きているから筋肉もまたそういう構造をしている。赤筋と呼ばれる持久力に優れる筋肉は主に重力に逆らって姿勢を維持するのに使われる。それが使われなくなるとその筋肉は失われる。
確かにベッド上で生活するとベッドが支えてくれるっすから、余り力は使わないっすもんね。
持久力に優れた筋肉が減るねんな・・・そんで疲れやすくなって、どんどん動かなくなって、いよいよ動けなくなるんやな。
そうだ。と進藤は答える。白波は今の病棟に異動を希望したきっかけの患者様を思い出した。ベッド上での生活が長引き、程なくして肺炎を発症した。今の山吹の元患者のように。
・・・そして肺炎を起こすんすよね。
そのリスクは起きているよりも遥かに高くなる。仰向けで寝ているとこう、内臓もまた重力に沿って背中の方に広がるから呼吸もし難くなる。内臓が横隔膜の動きを邪魔するんだ。
確かにそうかもなぁ。やって、しんどくなったら横になって休まんと、座って肩で息するもんなぁ。
そうだな。もちろん横になって休息を取る事も必要だが、座って呼吸が楽になるならその楽になる姿勢を取ると回復も早い。運動後に仰向けになって休息を取るという事は、自ら息苦しい姿勢にしているようなものだ。
なるほどっすね。それで何故肺炎になるっすか?
単純に仰向けになると、肺に入る空気が減る。そして咳の力が弱まって痰が出し難くなる。飲み込む力が弱くなった人では唾液が肺の方に流れ込む事だってある。痰が固くなると最悪の場合それが詰まって窒息して亡くなる事もある。
しん。とST室が静まり返る。いくら病院で働いていても患者の死というのは慣れるものではない。
それでちゃんとベッドから起こす必要があるんすね。
寝たきりの期間が長期になると起きておくのは辛いから、ベッドに寄り掛かるようにして体を起こすだけでも全く違う。クッションを使っても良い。仰向けで寝たきりは肺の後ろの方はあまり動かない、そしてそこに痰が溜まり気管が詰まる等して肺に空気の入らない無気肺と言われる状態になる。まぁ下側肺症候群とも呼ばれるね。
例えベッド上での生活が中心になっても姿勢は大切という事やんな。
飲み込みにも影響するし、仰向けで食事や飲水は危険だからな。それに2-3週間で明らかに体は変調を来たしてくる。たった2、3日でも体の各器官がダメージを受けるには十分な程だ。
それで先輩の元患者さんは肺炎になってたんすね。と白波は思う。尚更、起こしていかなければと思う。
あとあれやんな?深部静脈血栓症。あれにも気をつけなあかんのやんな?
それも十分に怖い。本来、足の筋肉が収縮と弛緩を繰り返してポンプのように働く事で血を巡らせている。でも寝たきりで足を動かさないとそれが行えないから血が滞りやがて固まる。なので長時間寝ていた患者様のリハビリをする時には必ず血栓が無い事を確認してから行うようにね。
はいっす!自分のリハビリで血栓を飛ばさ無いようにっすね
そやな、ほんで血栓を作らへんようにせなあかんな!
ふむ。と進藤は満足そうに頷いている。しっかし語るのは苦手と言いつつめっちゃ喋るやん。と坪井は目を細めて進藤を見た。やはり残念ながら山吹さんと良い、この人もまた個性的な人だと思う。類は友を呼ぶものやんなと肩を落とした。
でも寝たきりになると痩せていくやんな?あれも筋肉が落ちていくって事なん?
そうだな。例えば寝たきりだから栄養を沢山与えても筋力がついて活気が溢れて起き上がるものではない。無論それは必要な事だけどそれだけでは足りないね。
栄養をとって動かないと筋肉にはならないからっすね。
うん。逆に脂肪が増えすぎてしまう。脂肪細胞は細胞の中に糖分を取り込むのを邪魔する事もあるから、血糖値も上がる事も多い。
げっ!ほんなら甘いもんだけ気をつけてもアカンと言う事やん!
まぁそういう事だな。気をつけるように。
基本的に優しいんやろうけど、言葉の端々に無神経さが溢れている。と坪井はため息を吐く。どこか山吹さんに似てるなぁと頬杖をついた。
例え手術の当日や前日でも今はリハビリをしているからな。よく薫も患者に鬼や悪魔と言われながら離床してもらっていたよ。
あーなんかそれ凄く想像がつくわぁ・・・
「元気になったらいつでも担当を変えてもらって結構!」よくそんな事言って、その時の指導者から笑われてたよ。
先輩らしいっすね。不器用っすから。・・・その指導者さんはどんな人だったんすか?
これは胸キュン展開や!と坪井の目は輝き、白波を進藤を交互に見る。進藤は一瞬考えて、そうだなと口を開く。
・・・小さかったな。
そうなんすね!
それだけかぃ!
頷きあう二人を見て、坪井は派手に椅子から転けそうになる。坪井は自分の生まれと習慣をその時だけは後悔した。
白波百合のノート その37
・疾患がキッカケに寝たきりにならないように、しっかりと患者さんに起きてもらう。
・しっかりと起きて頂く事は肺炎の予防にもつながる。そして足を動かす事で深部静脈血栓症を予防する。すでに臥床期間が長い時には血栓が無いか必ず確認してリハビリを行う。
・栄養を補給するだけでは無く、しっかりと運動をして脂肪では無く筋肉にする。
・先輩の指導者は小さかったらしい。・・・その人は可愛かったのだろうか。
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