これは流石にやり過ぎか。山吹薫は両手に文献を抱えつつリハビリ室を訪れる。随分と早い時間だが逸る気持ちは抑えられない。
おぉ随分と今日は早いな。
主任こそ・・・いつ帰っているんですか?
さぁなと答える石峰優璃はいつものようにデスクに腰掛け、インスタントコーヒーを口に運ぶ。リハビリ室を照らす朝日は部屋の温度を僅かに上げている。黒い犬がプリントされたマグカップの色が僅かに薄く見えた。
まぁ新患さんですからね。その準備ですよ。
良い心がけだが、余り根を詰めすぎるなよ?
わかっていますよ。しかし脳血管疾患は調べれば調べるほど、難しいものですね。
十分に解明されている分野でもないからな。時代と考え方も常に変わる分野だ。そうだな・・・君は麻痺とは何だと思う?
文献をデスクに下ろし山吹は石峰の隣に座る。石峰は山吹へと向き直り、小さな手で同じように小さい顔を支える。なんだか少し眠たそうだ。珍しいなと山吹は思う。
麻痺は神経系の疾患に伴って手足が動きかなくなる。といった事でしょうか。
そうだな。しかし動きが鈍る事と動きが失われる事。感覚もそうだな、鈍るか失われる。大まかに鈍る時は不全麻痺、失われてしまう時は完全麻痺と言われる。
なるほど。そして中枢神経、脳や脊髄の機能がダメージを受ける中枢性の麻痺、そして末梢の神経につながる神経がダメージを受ける末梢神経の麻痺に大別されるといった事でしょうか。
大まかに言うとそうだな。まずはイメージをつけるために末梢神経の麻痺から考えようか。言っておくが、あくまで私の考えという事を念頭に置いて君もまた考えるのだね。
こんな眠たそうな瞳でも、頭は僕以上に回転しているのだから恐ろしいものだと山吹は思う。本当にいつ家に帰っているのだ?
末梢神経は多くは脊髄から出た神経が、その支配する筋肉へと到達する道だから、当然その道が途絶えるとその動きや、そこから得られる感覚もまた途絶える。
主として外傷でよく見ますね。例えば筋肉の中に血が溜まり神経を圧迫するコンパートメント症候群や、切り傷や大きな外傷によるものといった方でよく見ます。
そしてそれは障害される神経がどの程度障害されるかが重要になるな。神経自体が圧迫される・・・まぁ解りやすいのが正座で足が痺れた時のような感じかな?僅かな動きの障害と痺れが見られるが、障害される原因が除去されれば軽快する事が多い。
その他にも、神経を包む膜のような髄鞘が障害される、そして重大な外傷による神経自体が障害されてしまう。その時には殆どの動きや感覚が失われ、手術が選択される事もあるくらいですもんね。
神経が末端へと通る道筋が障害されては伝えるものも伝えられない。いくら脳が叫ぼうともそれは通じない。自分の片腕が障害されてしまうのは想像を絶する苦痛だろうと山吹は思う。
他にも脊髄から神経が出る部分での障害も多いな。
高度の腰椎疾患や頚椎症でみる麻痺ですね。・・・麻痺と表現する事は少ないのですが・・・脊椎も骨ですから経年により磨耗し、そして形を変え神経の出口で神経が障害され痛みや重たさ、人によっては動きが鈍る事もありますね。
特に痛みはその人の生活を大きく制限する。慢性的な痛みを伴う事も多いから苦痛は強い、これも高度であると手術適応となる。腰椎でも頚椎でも同様にだな。頚椎では当然腕に障害が出るから、労働や普段の生活が非常に制限が多くなる。
腰椎の疾患でもそうでしょうね。長い距離が歩けなくなる間欠性破行・・・これは休んだり体を曲げたら歩き出すことも可能ですが、それでも生活は制限されるので早めの受診が必要ですね。
確かに腰痛を何とかしてくれ。という訴えは多いが、画像が無いと中々手を出し辛い分野だと思う。自分の環境はなんと恵まれているのかと改めて山吹は思う。
それに末梢神経の障害であるニューロパチーも忘れてはいけない。これは運動というより異常感覚の訴えを聞く時が多いな。慢性的な痛みや痺れ、動きにくさや冷えるといった所か。
原因となるものは遺伝性や薬剤性、膠原病にも合併したりと多岐に渡りますから、医者と共に原因を確かめる事が必要ですね。僕らがよく見るといったら糖尿病性のものでしょうか?
高血糖が続くと神経の末端での小さな部分での代謝が障害されやすい。それは手足の末端で感覚障害を主体に出るから、原疾患のコントロールも必要だな。
何も筋肉や神経、骨だけで人間は出来ていないからややこしいですね。
それだけかな?と石峰は山吹に笑みを浮かべる。逆光線の朝日に浮かんで、まるで光の中に溶けていきそうな、眠たげな瞳の主任は山吹の目にそ写る。
こうして考えてみると、普段感じる肩こりや腰痛といったものも、脊髄に由来するものだったら麻痺の症状が隠されているのかもしれんな。
まぁ訴えの多い所ですから、よく聞く言葉ほど危険だ。という感覚が麻痺してしまうものですからね。
ほう。なんだか上手い事を言うじゃないか。
・・・ワザとではありません。
面白いのにな。と石峰は軽く欠伸を噛み殺してそう答える。夜とは違い随分と朝方は気怠げなのだな。と山吹は石峰がくしゅくしゅとその瞳を擦るのをぼんやりと眺めていた。
山吹薫の覚え書 28
・麻痺には大きく中枢の麻痺、末梢の麻痺に分けられる。
・末梢の麻痺では痺れや運動障害がその神経が支配する部分に出現する。そしてその末端に症状が出現するニューロパチーもあるために注意。
・主任は朝に弱いらしい←それでも僕より随分と早く出勤している。
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。』
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