石峰優璃の本の中 ⑨ 〜思い出の終わり〜

総論

1日の終わり、新患の担当となった山吹薫は遅くまで書類の処理に追われていた。交通外傷に伴う広範な脳の損傷。救命は難しいとのことだった。

医師よりリハビリのオーダーが下され、出来るだけそばで関わるようにという指示だった。

三十代の女性だった。夫は涙を堪えたまま黙り、抱かれた幼い子供はただ泣いていた。

苦痛は決して当人だけのものではない。複雑な要因が絡み合い、関わる全ての人に訪れる。

それは決して医療従事者だからといって別ではないのだ。

すっかりと人気の失せたリハビリ室で、石峰優璃が隣にいる。隣にいるからこそ山吹は普段以上の時間をかけてカルテを眺めている。

「どうだ。厳しいようだな・・・なんとも言えない気分になるな」

石峰はカルテに視線を落としたまま言った。僕はうなずく。

「彼女もまた苦痛を感じているのでしょうか」

わからないな。と石峰は言葉を結び僕へと向き直る。足は組まれてデスクに置かれた左手で細く白い顎先を支えていた。

「もし私が死ぬとして、君は私に何が出来る?」

いつもと同じ口調だった。言葉の重みとは相反して柔らかな笑顔で石峰は言う。

沸々と山吹の胸の内が湧き上がる。口の中で血の味がして指先が震える。

「何も出来ませんよ! 死んでしまったら終わりです!そこから先には何もありません!」

山吹薫は声を荒らげる。こんなに他人に対して気持ちの矛先を向けたことがあっただろうか。

石峰は言葉を正面から受け止め、さらに目尻を柔らかくする。言葉に表情はなかった。

「やはりそんな答えだろうな。君は私の期待以上だよ」

「ただ主任は死にませんし、僕が絶対に死なせません。ただ生かす訳では無く、しっかりと生きて頂きます。もし死んだとしても貴女から伝えてもらった事は主任の話と一緒に生かし続けます。僕の中でずっと生き続けます」

石峰は瞳を丸くする。真夜中の黒猫の様に。

ポツリと、嫌って貰っても構いません。言葉を漏らすとクスクスと笑いを噛み殺す音が聴こえた。

「そうはならんよ。そしてそうだな、私は死なない。なんだか今の君の言葉で私は『生きている』という状態が実感できた気がする。まだ説明は出来ないが、またいつか話そう」

「今すぐ話して下さい」

「ダメだ。推論のまま話すのは私は嫌いだ」

「主任は自分が見ているヒトの気持ちは分かるくせに、自分を見ているヒトの気持ちがまるで解っていない!!」

立ち上がり、石峰の正面に立ち言葉を吐く。どうしようもなく好きだと実感した。感情がコントロールできない。表情も見ることができない。

「悪かったな。そればかりはどうしようも無い」

石峰もまた立ち上がり、精一杯背伸びをして、山吹の頭に手を伸ばす。

引き寄せ、嗚咽を漏らし始めた山吹の言葉を石峰の唇が塞ぐ。

そして一瞬の静寂が訪れる。面を上げる山吹の真っ赤な目と、頬が目に入り、石峰は笑みを浮かべた。

「そんな顔では患者の前には出られないな」

「他の人の前にも出れませんよ。卑怯です」

「それはまた私も同じだな」

自分の頬が上気して、呼吸もまた速くなっているのが分かる。らしく無いなと自分が可笑しくて石峰は笑う。

「死なないで下さい」

「死なないよ。私を誰だと思っている?山吹薫」

石峰は初めて彼の名を呼んだと思った。いや初めて名を呼べたと思った。

「主任は僕の指導者の石峰優璃です。死ぬ訳がありません」

石峰は初めて名を呼ばれたと思った。きっと彼は初めて名を呼べたのだろう。

「もう山吹は新人では無くなってしまったのだな。嬉しくともどこか寂しい不思議な気分だ」

「基準がよくわかりませんよ」

「そんなのはないよ。ともかく明日からもこの病棟を頼むよ」

意図も意味もわからない。デスクの上には黒犬のマグカップと、黒猫のマグカップが並んでいた。

そして石峰優璃は姿を消した。

誰にも何も伝えぬままに。

山吹の唇に残した感触を残したまま、姿を消してしまった。

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