山吹薫は何やら悪戯っぽく頬を緩め笑う石峰優璃の正面で、次は何が起こるのやらと身を固めている。その反面、内海青葉は怪しく体を左右に揺らす。
さてさて次は何が起こるのかなー。
そういう事を言うのはやめてくださいよ。
まぁまぁ。まずその前に簡単に頭の中の事を教えてくれ。
それはつまり脳の事かと山吹は身構える。簡単にと言われてもそれは全てが解明されている訳ではない。
そうですね。まず脳みその外側、つまりは中心から外側に向かうにつれて高次の・・・というか人間としての複雑な動きや感情に関わる役割を担います。特に額から頭のてっぺんにかけて、大きく存在する前頭葉の大きさはヒトと動物を大きく区別する場所だと思います。
もちろん運動のプログラミングも行うけれど、相手の気持ちを察して行動する事や、感情をコントロールする事もする重要な場所だねー。
そう聞くと案外、ヒトの心を構成する場所なのかもしれないな。まぁそれは想像でしかないが。
そして両手の掌を耳の上に当てるとそこには側頭葉があります。言葉や記憶に関与する場所です。そして片手の掌を頭の上に当てると、そこには頭頂葉といって得られた感覚を統合して、対象の情報を統合します。記憶と連携して解釈を加える、と言い換えてもいいかもしれません。そして頭の後ろに手を当てると、そこには後頭葉があります。視覚から得られた情報を統合し、頭頂葉へと情報を送ります。こんなもんですね。
簡単すぎたか?と山吹は眉を顰めた。そして前を見ると得られた視覚情報から、二人が口を押さえてクスクスと笑いをかみ殺している情報が得られる。
・・・人がちゃんと説明しているのに何ですか。
いやすまん。頭をペタペタと手を当てる姿が可愛らしくてな。つまり頭蓋骨の下、脳の表層に広がる大脳皮質と呼ばれる部分は、得られた莫大な情報を取捨選択し、纏めて、管理し、統合するといった重要な機能だな。
そしてそれは記憶や情動、よりヒトとしてより根源的な感情と照らし合わされて初めて行動になるんだよねー。
なるほど。なら僕が今お二人を、目を細めて見ているのもそういう事ですね。
どうかな?と石峰は笑い、足を組み直す。続けろという事だなとその視覚情報を統合した結果、山吹はそう感じる。
大脳皮質の下には、どちらかというと生物共有の感情・・・というか反応ですかね。それらをコントロールする部分があります。まずは大脳基底核という、まぁ皮質に比べると運動の中継とコントロールする地点になりますかね。そこには淡蒼球、尾状核、被殻、視床下核、そして中脳の黒質の一群をそう総称します。
ちょっと離れた中脳の黒質が含まれるのは、そこから放出されるドーパミンという物質で運動をコントロール出来るようになるからだねー。きっと黒質が障害される多系統委縮症やパーキンソン病では運動を抑制する事を抑制できないから体が硬くなり、大脳基底核周辺の障害では運動が抑制出来ずに過剰になり過ぎて体が硬くなるのかもねー。
ここは大きく言うと運動のコントロールを行う場所だからな。さてその奥には何があるのだろう?
こう話してくると自分の頭の中の事なのに随分と混乱するなと山吹は思う。だけどもそれはきっと自分にとっても必要な事だと息を吸い込む。
そしてそれらの近くには大脳辺縁系と呼ばれる場所があります。これは皮質の下を前後に大きく広がります。記憶を担う海馬や感情に関連する扁桃体、帯状回といった複数の部分があります。ここは例えば食べる、怒るといった生物としての根源的な本態行動や情動を担います。
つまりは大脳皮質で社会的にコントロールされた意思とは別の根源的な意思という訳だ。
つまりは生きるために必要な感情がそこから湧き上がり、果たしてそれが今適切かどうかなのかを記憶や得られた視覚などの情報、そして過去の経験と照らし合わされて主に前頭葉で統合される訳だねー。
きっとヒトがヒトとして進化してきたのは、一人で生きる事が出来なかったからかもな。
石峰は吐息を吐くようにそう言葉を吐く。時折独り言のように流れるその言葉は、他愛もない事なのに山吹の心に酷く残る。
そして間脳と呼ばれる場所ですね。ここには感覚の中継地点となる視床があります。しかし嗅覚だけはここを通りません。そして視床下部。ここに巡る小さな血管からの情報で、例えば水分が不足しているから水分を取りたい、血糖が下がっているから食欲を出す。そしてそれらを補う多くの内分泌系、まぁホルモンを出すためのホルモンを放出します。
そうだねー。脳みそは表層になればなるほど、ヒトとしての行為を要求して、深い場所では生物としての生き方を要求する。だから葛藤なんてものが生まれるんだろうねー。
そしてそれらは硬い頭蓋骨で覆われ守られる。頭蓋骨の下にある硬膜、そして脳の表面を守る軟膜、そしてその間にあるクモ膜だな。そしてクモ膜と軟膜の間にはクモ膜下腔が広がりそこには動脈もまた存在する。
山吹は目の前の石峰を眺める。この小さな頭の中にどれほど膨大な知識が詰め込まれているのかと思うと、脳の大きさなんて関係がないのだろう。そう思う。
でも匂いが視床を通らない分、その感覚に装飾を受けない分、記憶にも直結しやすいって話はなんだかロマンチックだねー。
そうか?しかしそれを使ったアプローチもまた種々あるから興味深い所だな。今度試してみるか。
・・・僕で試すのは止めてくださいよ。
大丈夫。と意味深な笑みを浮かべる石峰に山吹は唇を歪ませる。そして柑橘系の・・・オレンジにも似た香りと、インスタントコーヒーの燻んだ香りが辺りを包んでいるのに、意識して初めて気が付いた。
山吹薫の覚え書 25
・脳の表層に至るまでに生物としての感情からヒトとしての行動へと調整される。
・膨大な感覚からの情報はそれぞれの大脳皮質で統合される。そして管理されコントロールされる。
・いつかこの香りでこの日々を思い出すのだろうか。
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。』
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