なんかちょっと母は落ち着いてきたらしい。坪井咲夜はリハビリ室のプラットフォームでぼーっとしながらそう思う。会話も出来るようになってきた。そう父から連絡があった。坪井はスマートフォンをぎゅっと握る。
あら咲夜さん！こんな所で珍しいですわね。
あっあぁ！ちょっとボーっとしててん！いやー今日も疲れたなぁ！
だよねー！肩がこっちゃうよー。
桜井玲奈の後ろから沢尻悠がひょっこりと顔を出す。こんなチャラいだけの人類みたいに明け透けに何事も口に出せたらと、坪井は首を横に振る。
そんで、あんたらは何してんの？
ちょっと初めての疾患について伺ってましたの。こう見えても私（わたくし）のプリセプターでしたから。
もー！一言余計なんだからー！そうそう。膿胸の方がいらっしゃってね。そのおベンキョー。
膿胸って、あの肺を包む胸膜に炎症が起きるってあれかいな。
最近は気がつけば呼吸器の教科書を引っ張り出している。それは呼吸器疾患に伴いCOPDの急性増悪で入院した、子どもの頃以来に再会した母の所為だとなんと無くそう思う。
そうですわ。人の胸部は胸椎、いわゆる背骨ですわね、そして肋骨とそれを構成する肋間筋、胸骨で出来る胸啌、横隔膜も含める時はありますわね。その大きな袋の中に肺や心臓や重要な器官が収まっておりますの。そしてその肺を二枚の膜が包むのですわ。
そやな。そして肺そのものを包む臓側胸膜、文字通り肺という臓器側の胸膜と、肺の壁の内側を覆う壁側胸膜の二枚の膜で肺は包まれてんねんな。そしてそのわずかな間にはサラサラした液体が流れていて、呼吸の時に肺が胸啌と擦れないようにしてくれてるんやったっけ。
そうそうー！そしてその何らかの原因でその僅かなスペースに炎症が起きてしまう。そうすると炎症反応に起因してその胸水も増加した結果、そこで細菌が増殖してしまう状態が膿胸だね。これは胸水が膿のように混濁しているからそう言われるようになってってさー！
さすがに詳しいわ。と軽薄に手をふらふらとさせる沢尻を見て坪井は思う
そんで、原因はあれやったな。胸啌には外界との交通が無いねんから、そこには空気が苦手な菌が繁殖しやすいわな。いわゆる嫌気性菌というものやな。これが膿胸の原因やって聞いたわ。
それにそれは元々口の中にありますから、それが誤嚥などの起因として胸啌に達して発症するとも言われてますわ。本当に誤嚥はなんでも注意しなければなりませんわね。
もっとも有名なものを忘れてるよー。それは結核だね。
うん。と坪井は頷く。慢性的に続く疾患は長い年月を経て増悪する。狙ったかのように計ったかのようなタイミングで。今自分は母にかける言葉は見当たらない。それほどの壁もまた長い年月で形成されてしまった。
結核はある意味有名な疾患だね。文学作品、とくにサナトリウム文学で古典を中心に有名だからねー。結核菌と呼ばれる慢性感染症で一時は国を挙げて対策がされた疾患だねー。これについてはまた今度詳しく説明するとして、進行が緩やかな分、年単位に近いほど遅れて胸膜炎を発症することがあるのね。そして自覚症状に乏しい慢性的な膿胸を呈することがあるのさー。
そうですわね。COPDも同様に息苦しさや痛みにも人はいずれは慣れてしまいますわ。それはある意味生体の恒常性とも言えるかもしれませんわね。
そんで慢性的に膿胸も続いて、気が付いた時には取り返しがつかないって訳やな。
一瞬沈んだ自分の表情を察してか、桜井は口に手を当てる。ほんまにこの娘はええ子やな。と坪井は表情を緩める。その後ろで沢尻はキョトンと首を傾げるが、この男だけには言えへんなと口を噤む
そして急性発症する事もありますわ！その時には発熱、胸痛、胸水の貯留による呼吸困難が主症状ですわね。そして合併する肺炎に伴って農性の痰、や咳も多く見られますわ。
そうだねー。そして結核菌が原因だった時は、ゆっくりと発熱し微熱や全身がどんどん痩せてくる事もあるさー。
そやな。そして地長はトロッカーカテーテル。いわゆる胸啌ドレーンと言われる、なんや細い針を入れて感染した胸水を廃液する訳やな。
治療・・・言葉にしてしまえばそれまでだけど、当事者とっては苦痛でしかない。それは家族にとってもそうだ。今の今まで実感はした事がなかった。
でもそれでも十分な改善が得られない時には、外科的な手術も必要になるって事だね。膿を掻き出すための手術。考えただけでも痛いよね・・その術後もまた非常に痛い。
考えただけでも胸がぎゅっとなりますわ！でもそれで改善が得られたら良いのですが・・・
そやな。でもそういう時にもリハビリはするんやろ？一体どんなリハビリをするんやろか。
それはねーといいたいけど、実はオレもわからない。だから困った時に山吹先生に聞きに行こうかー！
山吹薫。坪井はその言葉を飲み込む。あの不器用鉄面皮ならきっとウチよりもずっと上手くCOPDの急性増悪である母のリハビリをやってのけるのだろうなと思う。だけども・・・・坪井はその先の言葉は飲み込んで立ち上がる。
ほな行こうか。どうせ暇してんやろ。
そうだねー。以外と寂しがりやなんだあの人。
まったくそんな風には見えへんな！
といつものような無駄話をしながら休憩室へと向かう。両手を口に当て、はわわわと目に見えて恥ずかしがって動揺する桜井もまた、一拍おいて二人に向かって駆け出した。
坪井咲夜の手帳 その３
・膿胸は肺を包む膜の間に感染が広がり、溜まった胸水が膿のように混濁する。治療はそれをドレーンで抜くか、酷い時には外科的手術が必要。
・急性的に胸痛や発熱、呼吸困難感で発症が分かる時があるが、結核を起因とすると発症は緩やかだ。
・やはり壁は厚い。言葉が通り抜けられないほどに
【〜目次〜】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【Tnakanとあまみーのセラピスト達の学べる雑談ラジオ！をやってみた件について】
雑談で学べるラジオも好評放映中！たまにはまったり学んでみませんか？
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【ウチ⭐︎セラ！ 〜いまさら聞けないリハビリの話〜】
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