あぁもうどうしたら良いっすか。
一人きりの休憩室で白波百合はデスクに突っ伏す。
隣には高く積まれた大腿骨頸部骨折に関しての症例報告が、端々を所々にはみ出しながら積まれている。
先輩はいつでもここに居た。だけどもこんな時に限って出張だなんて何を考えているんすか!
言葉にならない非難の声にむぅ。と再び声を上げる。
だけども・・・だからと言って何もしない、出来ないのでは話にならない。白波は綴られたノートをパラパラと捲る。そこには先輩から学んできた知識と技術、そして先輩の言葉が並ぶ。
女は度胸!離床も度胸っす!
白波はデスクから立ち上がり休憩室の扉を開けた。
廊下をズカズカと気合を込めて患者様の部屋へと向かう。
自分の不安を隠す様に鳴るその足音は耳には不思議と入ってこない。すると病室の前に金色にも見える明るい髪の色をした、自分より年上の看護師さんが居るのが目に入る。
細く整えられた表情は一見厳しそうに見えるけど、いや実際にも厳しくてここに来たばかりの頃には大変にやられてしまった。
だけども今は素敵なお姉さんとして病棟に君臨する看護師の荒井(あらい)さんだ。そして鼻息荒く歩く白波に目を細めながら腰に手を当てる。
「あのね。もうちょっと静かに廊下を歩けないの?」
その一件棘のある言葉の裏にはいつだって優しさがある。それを知っているからこそ、白波はすんませんと軽く頭を下げる。
「いやぁ。気合が入りすぎたっす!術後の患者様はどんな感じっすかね?」
「もう全然変わらないわね。そうね。状態は良いわ。食事が中々進まないけれど、もうリハビリでしょ?鎮痛剤ならもういってるから、頑張ってリハビリしてきなさいな。」
うっす!と白波は敬礼して見せて、再びため息をつく荒井さんを後ろに病室へと入る。その単純な言葉の中には様々な意味が隠されている。そんな事にも気付けるようになったのは、きっと休憩室で勉強しているからっすね。
ふむ!と一度胸を張り白波百合は病室へと足を踏み入れる。
病室の中には何やらスマートフォンを見つめる西村綾子の姿があった。先日手術を終えたばかりで、主治医からの指示は早期離床、全荷重可能。痛みに応じて歩行器歩行から開始!という事だからここからが勝負だ。気合に満ち溢れた白波の姿を見て、西村は一度ため息をつく。
「やっぱり来たわね。先に行っておくけど痛くて、動こうだなんて持っての他だからね。」
「まぁまぁ。その起き方というのもコツがあるっすよ。今の時代は便利な電動ベッドっす!こうやって自分の力を必要以上に使わずにまずは起きてみるっす!」
そう来たか。と西村はニヤリと笑みを浮かべる。この人は決して悪い人ではないのは術前の介入で関係性が出来ているから分かる事っすね。と白波もまた笑みを浮かべた。
「そして起きる時に注意するのは脱臼肢位っすね。それは・・・」
そして白波は休憩室で学んだ脱臼肢位についての指導を行う。それに関しては西村は真面目に聞いており、しっかりもしているから理解も早い。
今回は後方アプローチだから特に靴を履く時やベッドの高さもまた注意っすねと白波は高さの調節を行う。ベッドの頭をしっかりと上げた後、股関節を捻らないように臀部を視点にベッドに腰を掛けるように僅かに介助を行いながら誘導する。
時折痛みに顔をしかめながらその動作が行えるものの荒井さんが自分が伝える前に主治医の指示の下、鎮痛剤を渡していてくれたからだろうとも思う。なんとも仕事が出来る人っす!と内心感心する。そしてようやくベッドの端に座る事が出来た西村は大きく息を吐いた。
「よし!今日のリハビリはこれで終わりだね」
「まだまだっす!今日はせめて立つっすよ!勢い余って歩いてもらっても大丈夫っす!」
「あんたねぇ。まぁ早い事に越した事はないんだろうけど、まぁいいわ。やってみましょうかね。」
なんだか何時になく今日はやる気っすね?白波は首を傾げる。だけどもそう言ってくれるとこちらとしてもやっぱり嬉しいっす!
そうやってその日のリハビリはなんとか支えられて立つ事は可能だったのだけど、そこから歩き出す事は出来なかった。それでも上々っすね!と白波は西村をベッドに寝かせながら腰に手を当てる。その額には西村以上に汗を掻いているのは自分では気が付かなかった。
その日から離床はなんとか一緒に続けていき、僅か三日で西村は歩行器を使って僅かな距離を歩く事が出来て、白波もほっと胸を撫で下ろす。
「やっぱり若いっすね!リハビリも順調っす!」
「自分よりはるかに若い子にそう言われると何だか変な気がするわね。あっそうだ。ちょっとウチが歩いてるところ動画に撮ってくんない?」
「別に良いっすけど、急にどうしたんすか?」
「まぁ。別に大した事ではないんだけどさ。手術の次の日にウチの娘がね。やたらと心配したようにメール送ってくるからさ。安心させてやろうと思ってね。あの子もう私が死ぬんじゃないかって心配してくんの。ホント可笑しいわねぇ。だからアンタのお母さんはすごいんだぞって教えてやんのさ。」
その目尻は緩ませその文面を反芻するかのように語る西村の笑みを見て、白波は例えようのない暖かい液体のようなものが胸を満たしていくのを感じる。そして西村からスマートフォンを受け取り、念のために手すりの横に歩行器をセットして、何とか歩き出す西村の姿をそこに映す。
画面の中で歩く自分の患者様は決して正常歩行とは言えないけれど必死に歩いている。自分と同じくらいに必死に。
ちょっとは先輩に良い報告が出来るっす。早く帰って来ないっすかねぇ。とふらふらと歩く西村の姿をヒヤヒヤとしながらと眺めながら、白波はそう思った。
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【これまでの話 その①】
【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】
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