とうとうこの日が来たっす。
白波百合は新しい浴衣の前で、正座のままに向かい合う。
寸法は変わっていないはず、後は袖を通すだけっす。
畳間の姿見の前で、ゆっくりと着付けてみる。
幼い頃からの習慣だからそれは容易だけども、寸法が合うかどうかは別問題である。
ちょっとキツイっすけど、まぁ大丈夫っすね。
ふむ、と姿見の前で回転してみる。紅い浴衣は淡い色のままに揺れる。
外からはコンチキチン・・・・と音色が響き、窓際の風鈴は揺れた。
男衆は鉾を立てる算段を立て、子供達はその音を奏でるための練習に勤しむ。自分はというと一人娘であるからか不思議と仕事は無い。
祭りの時期のいつもの風景。
これだけは昔から何も変わらない。そして自分は何か変われたのかとそう思う。
実感は無いけれど、辿ってみるとそれなりの家柄らしい。
蝶よ花よと育てられた事もあったけれど、自分にとっては窮屈でしかなかった。
半ば飛び出すように一人暮らしを始めたのだけど、この時期には必ずこの家へ戻って来る。不思議なものだといつもそう思う。
ふと先輩は今頃何をしているのかが気になった。
きっと祭りの音にも気が付かないで、休憩室で文献に埋もれているっすね。
右手を伸ばして裄の丈を確認する。広がる袖は流れこむ風に揺れる。
何も変わった気はしないけれど、休憩室の風景は少しずつ変わっている気がする。進藤さんや葉月もまたその風景に加わっている。
咲夜もいつか連れて行かなきゃっすね。
一人で黙々と真摯に難題に打ち込む先輩というものは凄いと思う反面、近寄り難いし話し辛い。悪い人では無いと思っていてもやはり、話しやすい誰かに意見を求めるのは仕様が無いと思う。
そしてきっと先輩みたいな人は孤立していって、いつしか何処かに行ってしまう。優秀であればあるほど別のステージへと歩を進める。それもまた仕方が無い事かもしれないけれど。
きっと心の持ち様だとも思う。後輩に話しかけられ易い先輩であるために、良き指導者としてある程度自分を捨てなければならないし、後輩もまた先輩と話し易い関係を作らなければならない。
良き指導者であるために自己は捨てなければならない。そして良き学び手であるためにも自己をきっと捨てなければならない。
でもそれは何か違う気がする。プロとして、社会人として、セラピストとして、後輩として・・・そんな言葉は正直嫌いだ。
だけどあの休憩室では、余りそんな事を考えなくて良いのが不思議っす。
祭りの奏でる音と共に、先輩が目を細めてため息をつく音が聞こえた。
最初会った時には正直怖かったとも思う。だけども眉を潜めて文献を眺める何処か幼い姿や、不釣り合いなほど可愛い黒猫のマグカップを見て、何処か可愛らしい人だと思った。
結局そんなもんっすよね。自分の気持ちの持ち方っす。
両手を後ろに回して伸びた髪を一つに纏める。髪は指の間をスルスルと流れていく。
出来る事ならみんなで楽しく。
そうは在りたいけれど、それはとても稀有な事で長くも続かない事も知っている。
でもその時間が出来る限り続いたのならとも思う。
結局何事も努力っすね。いつか努力をしないで良い様に。
階下から母が自分を呼ぶ声がする。お客様が来たらしい。
また独り身である事を、咎められるのだろうか。
まぁこれも年に一度のお祭りだからしょうがないっす。
はぁいと白波は返事をして、姿見の前から歩を進める。
先輩はお祭りに来るんすかねぇ。
木造りの階段を降りながらそんな事を考えた。
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