白波百合の頭の中 その⑦  〜月の光〜

総論

内海青葉の教室からの帰り道、桜井玲奈と別れた白波百合は一人病院へと戻る。

上からジャージを羽織ってGパンのままで病棟へ上がり、先日急変して運ばれてきた患者の病室の前に立った。右手には青葉から受け取った山吹薫への心地よい手触りの茶色い紙袋が握られている。

どうしてもその患者様の事が気になっていた。

以前急変した自分の患者様と何処か似ている様な気がして、そう言う感情を持つことが良いことか、悪い事かは分からない。だけども自分が居ない時にもし何かが起きていたら、そう考えてしまうとどうしても気持ちは落ち着かなかった。

確かにこの病棟にはベテランの看護師さんが居て、先輩だっている。自分が今何を出来ると言うわけでもない。

内海先生は最後に、知識や技術が確かなセラピストが決して良いセラピストではないと言った。

今の自分にはもちろんそれらは足りない、白波はどうしてもそのままでは良いセラピストには成れない。内海先生には申し訳ないけれどそう思った。正直な所、今すぐに先輩の様なセラピストになりたい。肩を並べて教えられるだけでは無く一緒の目線で物事を見たかった。

病室の奥で患者様は静かに瞳を閉じている。無機質はモニターはサイナスリズムを刻んでいて別段異常値を示してはいない。だけども遷延した意識障害はそれ自体が重篤な症状を表している。

呼吸は平静であるものの、心肺停止の起因が上気道閉塞ならばその対策もせねばならない。

昔は考えることも出来なかった事を今は考える事が出来ている。これは紛れもなく先輩のお陰なのだけど、まだそれでも足りない。そう思うとやはり悔しい。

まだ2年目だから。と言う言葉はここでは通用しない事も知っている。新人だった先輩はもっと出来ていたのかもしれない。自分とは違って。

そう考えると誇らしい様な、そして悔しい様な複雑な気持ちになるのが不思議だった。

「おー白波百合先生ではありませんか。休みなのにご苦労さんだな。」

その声に白波は体を固める。去年嫌と言うほど聞いた嫌な声。じっとりとした髪の毛といかにも不健康そうな体つき、舐める様な目線を感じるだけで背中にじっとりと汗を掻く様な気がする。

白波が振り向くと、そこにはかつての新人の時のプリセプターが、面倒臭そうに立っていた。

「急変した患者を見に来たはいいものの、このまま一般病床で転院調整してくれるよな。このまま回復期病棟に戻ってきても何も出来んだろう。除外対象者はもう決まっているんだから、利得を稼げないなら仕方がないよな」

違う・・・白波百合は右手をギュッと握る。自分の手が汗に滲んでいるのがはっきりと分かる。この人の言っている事は間違っている。その想いだけは確かにあるのに上手く言葉にならない。

「それは・・・違います・・・」

やっと白波が言葉にした心の声に、その元プリセプターは眉を上げる。昔からそうだ、自分の意見に反論されると酷く不機嫌になる。自分が管理者であるプライドからか、それは分からない。

「なんだ?偉そうに。2年目になって山吹の下で働いているから調子にでも乗っているのか?あのな。アイツはセラピストとしてはどうか知らんが、組織の中のはみ出しものだぞ。社会人としては不適合だと俺は思うね。それにお前もとっとと回復期病棟に戻ってきたらどうだ?そんでここで学んだ事をわかりやすくみんなに伝達するのが、社会人として正しい事だな。そろそろ先輩なんだし・・・」

その言葉に自分の首から上がギュッと赤くなるのが分かる。行き場を失った言葉はぐるぐると心の中を巡り、右手にだけ力が入る。自分だけなら良い。だけども患者様や先輩の事を言われるとどうしても・・・どうしようもなくなる。白波がきっと元プリセプターの顔を睨みつけ口を開いたその時に、スッと自分の隣に立つ人の存在を感じる。その声の主は白波の前へ右手をそっと伸ばした。いつもの様なインスタントコーヒーの香りを漂わせて

「ほう。面白い話だな。なら僕がその講義を請け負ってやるよ。それに人事に口を出せるなんて偉くなったものだな。それに君は管理者だ、そして僕は管理者ではない。言われのない誹謗中傷をするだなんて心外だね。君のはるか上を通して抗議させてもらうさ」

ふん。といつもとは確かに違う鋭い声色で山吹はそう言ってる。一歩踏み出した山吹は白波の前に立ち、その元プリセプターと対峙する。

「管理者の席を自分勝手に蹴っておいて、よくそんな偉そうな事を言えるもんだな。それにそいつは俺の元プリセプティだ。後輩で、俺が師匠の様なもんだろう。」

その張り上げられた言葉に山吹は片方の眉だけを上げて不機嫌そうに唇を歪ませる。人睨みで相手の言葉を奪う凶悪なその顔を見上げつつ、それは初めて見る表情だと白波は思う。

「勘違いしていないか?そんな下らない上下関係を決めるのはお前でも一般論でもなくて、白波君だろう。何を言っている?それに良いのか?そんな声を張り上げて?僕はもちろん構わないがね。良い見せものだ」

ふん。と鼻を鳴らした向こうには病棟の看護師や介護士が何事かとこちらに集まり始めている。元プリセプターは一度口を開きかけたものの、グッとその言葉を飲み込むのが見えた。

「まぁ良いさ。大きな組織の中でどれだけ頑張れるかな。お前がこだわるこの病棟にもいつまでも居られないさ。異動だってこちらが決めるもんだからな。どうだ?いっその事出向と言う形で何処か遠くな場所へでも旅行に行くだなんて興味はないかね。」

そう吐き捨てる様に口早にそう言うと元プリセプターは逃げる様にその場を去る。

「そうなったら僕は僕を必要とする所に行くよ。当たり前だろう。」

呆れた様に山吹はそう言葉をその背中に投げる。白波はぎゅっと目の前にある山吹の服を掴む。

「どこにも行ったら嫌っす」

「まぁな。まだどこにも行かないよ」

「ずっとっす・・・」

「定年まで此処にいるのか?その前に君の方がどこかに行くかも知らないだろう。僕もだけど君もまた学ぶことは沢山あるんだから・・・」

「自分はずっと先輩と居るっす!」

僅かに俯きながら張り上げられた言葉は病棟の中を残響を残しながら流れた。

「だから・・・人の目がだな・・・」

と明らかに困惑した様に声の行先を揺らがせながら山吹は答え、病棟でおぉ・・・と僅かに歓声が上がるのを聞いて白波の顔は上気し、その背筋までがまっすぐとなる。何か話題を変えなければならない。そうだと白波は内海から受け取った紙袋を開く。

「そっそうっす!内海先生から先輩に渡す様に言われたっす!って・・・これは・・・」

「サボテンか?にしてはトゲと言うか産毛の様なものに包まれているな」

「月世界って品種のサボテンっすね!触っても痛くないトゲが全身を覆っているっす!大小二つ並びで可愛らしいっすね。」

何の比喩だよと山吹は腕を組んでそのサボテンを覗き込む。そして、ん?と首を傾げる。

「なにか紙切れが入っているな?メモ帳か?」

「どれどれ・・・これは内海先生の字っすね!『人は人を育てて初めて一人の人と成れる。そうする事で初めて一人の人を診る事が出来る』」ふむ!なんだか難しいっすけど!良い言葉っすね!

「言いたい事が直接的すぎるな。比喩でも何でもないじゃないか」

呆れた様に山吹はその紙袋を受け取り、休憩室に飾っておくよ。そう言った。病棟から出てきていたギャラリーはいつしか姿を消している。しかし患者様も沢山居る中でやらかしてしまったっす。と改めて白波は首を垂れる。これは絶対怒られるパターンっすねとため息を吐いた。それを見て山吹は歩き出しながら、

「ともかくコイツの世話の仕方を教えてくれ。僕には分からんが君は詳しいだろう?」

その言葉にパッと白波は表情を明るく先輩を見る。今はその表情は見えず歩き出したその背中しか見えない。白波は小走りにその隣に並ぶ。

「しょうがないっすねぇ・・・良いっすか?特にこのサボテンを育てる時には水を上げる場所に注意するっす!体の部分にかけ過ぎると・・・」

その言葉に思いの外、山吹はほう。とかなるほど・・と頷いている。それに白波はふふんと鼻を鳴らす。すっかりと遅くなった病棟の窓からは月光が僅かに漏れていた。

今だけはちょっとだけ頑張って隣で一緒の歩幅で歩いてみよう。白波はそう思いながら、その廊下を精一杯の歩幅で山吹の隣を歩く。僅かだけ速いテンポで、賑やかに、それはもう歌う様に。

【〜目次〜】

『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。

【総集編!!】

【これまでの話 その①】

【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】

【時間がない人にお勧めのブログまとめシリーズ!】

【ウチ⭐︎セラ! 〜いまさら聞けないリハビリの話〜】

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