多分始まりはきっとあの病棟だったのだと思う。
そこには日中問わずにサイレンの音が鳴り響き、そしてリハビリ室にはいつも主任が居た。
光が透過して毛先が赤く見える黒い髪は真っ直ぐと伸び、髪を下ろすと小さな体の挙動と一緒に揺れていた。
成人しているか分からないくらいの幼い顔立ち、
それでいて救急科の主任を務める実力者でもある。
毎日業務を終えた後のリハビリ室で主任と話した。
他愛もない日常会話なんかではない。
患者にまつわる病状やその基礎の話。
主任は自分では分かっていながらも、一通りの説明を僕に話させた。
そして患者の病状を離させた後、必ず最後にこう付け加えるのだ。
「私がもしそうだとしたら、君は私に何が出来る?」
その問いは実際に患者を目の前にした時に何を選択するか。
そう言う事だと思っていた。事実それは自分の行動規範となっていた。
そして程なくして指導者であった僕の主任は消えた。
冬の寒さが本格的に芽生え始めたそんな時に。
きっと僕はまだそんな過去に囚われているのだと思う。
主任の後を追いつつ日々を進めて自己研鑽に没頭する。
思えば主任が自分に語る言葉を語り、そして嫌いだったインスタントコーヒーもまた気が付くと良く飲んでいる。
きっとその背中に近付きたい。
自身の行動規範の変化であろうけど、きっと取り戻したいのはあの日々なのだとも分かっている。
どうしようもなく懐かしい日々はまだ僕の中で続いている。
前進しているようで結局のところ過去へと戻ろうとしている。
なんとした矛盾だけど、その矛盾もまた心地良く感じてしまう。
孤独であればあるほど、幼い頃から孤独であった石峰優璃の心に近付ける。
そう思うとなんだか心が安らいだ。
結局の所そういう事なのだろう。
あの人の心が知りたかった。自身の事は何一つ語らずに僕の人生の行き先を決めてしまった。
そんな主任の心が知りたいのだろう。
自身の語る言葉も行動も、そして仕草でさえもそうなのだ。
ひどく情けないと思う。
情けないと思うけど、それを知らなければ僕の話は決して前には進まない。
そして今日も主任と同じ名を持つ後輩が休憩室のドアを叩くのだろう。
そして僕は今日もまた主任の心に沿うように語るのだ。
そして僕は知っている。それはきっと主任が望まない事を。
そして僕は気が付いている。その後輩が自分に最も足りない部分を持っていて、それが酷く眩しい事を。
さて今日も楽しいリハビリテーションの時間だな。
声色さえも遠くに聞こえる。そんな言葉を山吹薫は呟いた。
黒猫のマグカップの中には気泡を纏う泡がゆっくりと消えていく。
それに自分の思いに想いを馳せながら、休憩室のドアの音が鳴るのを聴いた
【これまでのあらすじ】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【これまでの話 その①】
【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】
tanakanの他の作品はこちらから
ちなみに千奈美さんの第一話はこちらから
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