息切れの話 その③   〜息切れ以上に怖い状態〜

呼吸

西日が格子型に長い影を作る休憩室のデスクには、オレンジの香りを漂わせるチョコレートと、燻んだ香りのインスタントコーヒーの香りが満ちる。

人を嘲るように笑みを浮かべる黒猫のマグカップから、透き通る湯気が気持ちよさそうに揺れていた。

山吹 薫
山吹 薫

しかしよくそれだけ菓子を食えるものだな。

白波 百合
白波 百合

脳を働かせるのにもエネルギーが必要っすからね!

そんなもんかね。と山吹薫は頬にチョコレートを詰め込んだ白波百合を眺める。白波はそのオレンジピールのチョコレートを口に運ぶ山吹を見て、これなら食べるんすねぇと笑みを零す。

山吹 薫
山吹 薫

その摂取した糖分をエネルギーに変えるのにも酸素は必要だからな。

白波 百合
白波 百合

前に教えてもらった加水分解というやつっすね!。

山吹 薫
山吹 薫

それを行うにもそこまで酸素が届かないと意味は無いよ。まずは大気中にある酸素を口と鼻から吸う。そしてそれは気管を通って肺に到達する必要がまずは有る。この能力を換気能力と言う。

白波 百合
白波 百合

窓を開けて部屋の中を換気する!みたいな感じっすかね?

大まかにはね。と山吹はそう答えて、マグカップを口元へと運ぶ。いつか先輩の指導者さんから貰ったそれは随分と古ぼけて見える。それだけ大切なんすね、と白波は胸の奥がキュッとなる。

山吹 薫
山吹 薫

いくら窓を開け放ってもその先が狭かったりしたら空気も十分に入ら無いし、ましてや部屋自体が狭かったら酸素も満ちる事は無い。という事は、空気の通り道である気道が炎症や痰の貯留、寝ている時に舌が塞いでしまっていたりすると酸素は肺まで十分に到達する事は無い。それに肺や肺を包む胸が硬くなってしまっていると当然酸素も満ち無い。

白波 百合
白波 百合

なるほど、タバコを長く吸っていると肺が硬くなるっすもんね。それに例えば円背のおばあちゃんは、肺を包み込むような姿勢になるから肺も広がりにくいっす。

山吹 薫
山吹 薫

肺に加えられた圧に対する変化、まぁ肺の膨らみやすさかな?それを肺コンプライアンスと呼び、胸郭の膨らみやすさを胸郭コンプライアンスと呼ぶ。この二つは別に考えておいたほうが良い。コンプライアンスは法令遵守という意味合いもあるが、臨床では別に使われるから区別も必要だな。

白波 百合
白波 百合

ふむふむ。肺の膨らみやすさと胸郭の膨らみ易さは案外一緒に考えていた気がするっす。いくら胸郭を柔らかくしても肺自体が硬いと確かに空気が入ってきても膨らまないっすね。

そういう事だな。と山吹は答える。きっと指導者さんの事をまた考えているんすかね。と白波は思う。そして自分はまだその結末を知ら無い事もまたちょっとだけ悔しく感じる。

山吹 薫
山吹 薫

そして部屋の中に空気が溜まり過ぎていると当然新しい空気は入ってこない。空気を沢山取り入れようとする事と同じくらいに古くなった空気を外に出す事も大切だよ。

白波 百合
白波 百合

言われてみればそうっすね。深呼吸の練習する時とか息が切れている時にはやっぱり沢山息を吸おうとするっすもんね。

山吹 薫
山吹 薫

肺はまぁ風船のようなものだからな。沢山息を吹き込んだとしてもその先に空気があると入ろうにも入れない。特にCOPDの患者様は酸素を吐き切れない事が多い。詳しくはまた今度話すが、そんな時にはゆっくり息を吐き切る事を指導したほうが息切れは収まったりする。

白波 百合
白波 百合

後はしっかり深呼吸っすね!ついつい沢山息をしようとして浅く速い呼吸になってしまうっすから!何事もゆっくりっす!

それでも焦ってはいけないと白波は思う。それに今先輩の近くに指導者は居ない。何があったにしてもそれが全ての答えだと思う。

山吹 薫
山吹 薫

後はそうだな、肺胞という酸素や二酸化炭素を受け渡す場所もまた当然重要な要素だ。例えば高度の炎症やそこに至るまでの小さな通路が痰で塞がると当然その小部屋には酸素はいかない。

白波 百合
白波 百合

なるほど、肺炎といった所っすかね?確かにレントゲンを見ると肺がボヤってなってる人もいるっすから。

山吹 薫
山吹 薫

特に肺胞に至る小さな気管支ではなく、気管支分岐部に近く太い場所に痰が詰まるとそれだけ急変のリスクは高くなる。その先に空気が行かない無気肺という状態になる。もちろん気管支分岐部から更に中枢になると上気道の閉塞、つまりは窒息する。窒息すると酸素は当然体に運ばれず死に至る事もある。白波君もあと60年ほどしてそんな風に口にものを詰め込んでいると危ないな。

白波 百合
白波 百合

むー。その時は十分に弁えているはずっ・・・す・・・

自信はないなと白波は視線を山吹から外す。そんな遠い未来は想像が出来ない、そしてこの日々も何時まででも続くかは分からない。

山吹 薫
山吹 薫

そしてその肺胞と呼ばれる小部屋以外にも問題が生じる事は多い。肺胞と血管の間の間質と呼ばれる細胞同士の支えが肥厚してしまう、間質性肺炎と呼ばれるものや、高度の心不全で肺に水が溜まっても血管の中に酸素は移動し辛くなる。

白波 百合
白波 百合

ふむふむ。物を流通させようにもその受け渡し場所に問題があるとスムーズに行かないっすもんね。

山吹 薫
山吹 薫

他にも肺胞が破壊されてしまう高度のCOPDでは血管が正常でも、酸素を受け渡す小部屋が破壊されている訳だから当然受け渡しも出来ない。ブラと呼ばれて破壊された肺胞が虚脱し、その代わりに別の肺胞が過度に広がり、張り巡らされた血管も効率的に働く事は出来ない。

白波 百合
白波 百合

それはそうっすよね。受け渡しする場所が正常で無ければ当然それは行えないっす!

ある意味この休憩室もその小部屋のような物なのかも使れないと白波は思う。この部屋と自分たちも変化していく。それはきっと止められない。

それでもまぁ少しでも良い方向に変化が出来たら良いのだけど。

手元まで伸びた格子の影をなぞりながら、白波はそう思った。

白波百合のノート 76

・胸郭の膨らみやすさと肺の膨らみやすさは別に考える。

・換気をする際にその通り道や酸素の受け渡し場所に異常があると難しくなる。別々に考える。

・何時までもこの時間が続けば嬉しい。

【これまでのあらすじ】

『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。

【これまでの話 その①】

【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】

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tanakannaika|note
理学療法士でパーソナルトレーナーなブロガーです。また動画編集や過去には脚本執筆や演出、撮影、編集など多岐に渡って活動しておりました。楽しみながら学べる『内科で働くセラピストの話』を執筆中。

ちなみに千奈美さんの第一話はこちらから

その1 『伝えたいことを思い出せない』|tanakannaika|note
ここはとあるクリニックのリハビリ室。そこには僕こと、高橋を含めた4人のリハビリスタッフがいる。そしてそこの主任は千奈美さんであるのだ。 瞳と同じくらい小さな整った丸顔で、それに合わせて栗毛が緩く巻かれている。 そして業務の終わり、僕は千奈美さんから呼び止められた。 「高橋くん高橋くんちょっと待ってー!」 「そん...

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