西村綾子(にしむら あやこ)は目の前に伸びる平行棒を両手で掴む。教えられた通りに座っている時に足が開かないようにしながら、気を付けの姿勢のまま立ち上がる。手術した左足に体重が掛かるのが分かる。大分痛みは治まったけれど、まだ怖い。
「大丈夫っす!いいっすか!?立てば芍薬座れば牡丹っす!」
「もうそれは何回も聞いたって、ちょっと待って」
目の前には担当理学療法士の白波百合が鼻息を荒くして頑張るっす!と両手を握っている。そして西村は両手を離して右足を上げる。一瞬だが左足に全ての体重が乗った。僅かに痛いし姿勢も不格好だ。それでも何とか左足が昔のような感覚で地に足を付けている。それは言いようも無いほど嬉しかった。
「ちょっともう無理・・・座らせて・・・」
どうぞっす。と西村は用意された車椅子に腰をかけて額の汗を拭う。
まさかこんな事になるだなんて。そう思いつつ左の股関節に触れる。腫れは大分引いたのだけどやっぱりまだ熱を持っている。
手術をする前はまさかもう一度立てるだなんて思わなかった。未来には何も見えずにもう終わりだと思った。だけどもまた再び立てている。それは医師や看護師さん達、そして目の前の少女みたいな先生のお陰なんだろうなと思う。口に出してはやんないけどね。と笑みをこぼす。
「よしこれで今日のリハビリは終わりかしら?」
「何を言いますやら!今から廊下を杖で歩いてみるっす!」
やっぱりかと西村は舌を出す。憎まれ口を叩きながら実はそれを楽しんでいる自分がいることにも気が付いている。
まさか手術のあとすぐにリハビリが始まるだなんて思わなかったし、そしてこんなに早く歩く練習が出来るとは思わなかった。それでも歩けるという事はこんなに嬉しい事で、当たり前の事がこんな事だとは思わなかった。きっとそれは誰もが同じ事なのだろう。
廊下に出てみて、細い杖を頼りにしながら何とか歩く。これぞテレビで見たリハビリの世界だわ。と西村は思う。隣には白波が脇を支えてくれているからそれほど不安ではない。だけども手術をした左足は歩けているけど本調子とは言えない。でも歩いている。西村はぐっと額を上げる。そこには長い廊下が広がっていて、昔なら何も感じなかったその距離は今や途方もなく長く見える。
10mほど歩いて、西村は椅子に腰をかける。こんなにも大変で辛い、だけども何処か嬉しい。地に足が付いていて、こんな短い距離をこんなに一生懸命歩く。そんな情けない姿なのにだ。
それはきっと自分以上に喜んで、額に汗を流している白波が居るからだろうとも思う。娘くらいの歳なのにねぇと杖を抱いて西村は白波を見る。何っすか?と目を丸くして白波は首を傾げた。
「おっやってるやってるー!すごいじゃーん!」
「沢尻さん!お疲れさまっす!凄いっすよね!もうこんなに歩けて、患側にも荷重がしっかり乗ってきたっす!」
やったじゃーん!とその茶色がかかった髪をした細身の如何にも軽くて、そして何処からやってくるのか分からない自信たっぷりの表情の男は、人差し指を白波に向ける。だけどもその表情になる一瞬前に鋭く細くなった瞳でチラリとこちらを見た瞳は、その外見と内面が一致していない事は明らかだった。まぁこの女の子先生には分からないだろうけどね。とため息を吐く。
そしてその男はしつれいしますー!とこれまた軽薄な会釈をしてそのまま歩き去っていく。
「ねえ。あの人あんたの先輩?」
「そうっす!ちょっとチャラいけど色々面倒見てくれるっす!」
「へぇ。まぁ面白い男だね。」
本当に面白いっすよ!と白波は沢尻と呼ばれたセラピストに手を振り返している。まぁ自分の感じている面白いとは全く別物だろうけど、と西村はそれは言わない事にした。
「それでどうっすか?娘さんとは?この前の動画喜んでくれました?」
「ふふん!びっくりしてたよ!この前手術したばっかりでしょ?ってね。まぁそれから何となく日常会話的な事もするようになったよ。今日はこんなリハビリをして、とかその程度だけどね。」
たったその程度、だけどもそれは遠い昔に忘れてしまった親子の会話だった。夕日を背にして手を繋いで歩いた。そんな遠い昔の風景がなんだか胸に浮かぶ。よかったっすね!と白波は胸の前で小さく拍手しながら喜んでいる。他人事なのにこんなに喜べるだなんて凄い子だねぇ。と西村は思う。だからこそ多分この子を信頼しているのだとも感じる。
「そんでさ。明日回復期病棟って所に移って本格的にリハビリ始まるんだってさ。アンタがそのまま担当してくれるんでしょ?」
「それは・・・でも回復期のスタッフも良い人ばっかりっすよ!担当は変わってしまうっすけど、これからが本番っす!さっきの沢尻さんも回復期病棟なんすから!」
そっか。と分かり切っていた言葉なのに、やっぱり胸に穴が開く思いだ。だけどもここまで頑張ってくれたんだから、そんな事は口には出せない。
「あーあー残念。あの男前な先生にもリハビリして欲しかったなぁー」
と言いつつ、西村はちょうど白波の後ろから、両手に荷物を抱えた例の男前な先生が歩いてくるのが見える。やっぱり整った顔のいい男だねぇ。と頬に触れる。しかし白波はそれに気がつ付いていないようだ。
「いやいや。先輩は自分より大変厳しいっすから!それに全然乙女心の何たるかも分かってないっすからねぇ。こう女性の細かい感情の機微なんて全く・・・」
「そうか。乙女心が分かっていなくて悪かったな!」
言葉の終わりに丁度白波の後ろに立ったその男前な先生は、荷物を抱えたまま腕を組んで白波を目を細めている。何とも間が悪いと西村はクスクスと笑う。そしてその先生は腕を下ろして丁寧に会釈をする。
「恥ずかしながらこの子の上司の山吹薫と申します。もう歩かれているなんて驚きました。この子がご迷惑をお掛けしませんでしたでしょうか?」
「いいえ。良い先生でした。一生懸命やってくれて助かりました。ちょっと慌てん坊でおっちょこちょいでしたけど。」
そうですか。と山吹は笑みを浮かべてる。柔らかくそして何処か燻んだ笑顔。そしてもう一度会釈をすると失礼しますと何処かへ歩き去って行った。あぁなるほどこりゃ大変だ。と西村は思う。
「もうほら!こんな感じの先輩っす!」
「なんというかアンタも間が悪い。」
「そりゃそうっすけど・・・」
と白波は口を尖らしている。でもきっと彼女は気が付いていないだろうなとも思う。その安心しきっていた表情と僅かに色を差すその頬の事など。だけどもなぁ。と西村は腕を組む。
「まぁアンタがどう思うかは分からないけど、ああいう人はちゃんと掴んでいないと勝手にどっか行ってしまうからね。自分より大切な事を我が降り構わず目指そうとする人は、それ以外見えないんだからね。もし見えていても見えない振りをして、どんどん周りを置いてけぼりにしてしまうんだから。なんつうか・・・大変なのに惚れちゃったね。」
「そそそ!そんな事はないっす!」
と明らかに動揺し両手をパタパタとさせる可愛らしい先生はモゴモゴと何か言葉を続けている。ウチも大変だけど、この女の子先生もまた大変なんだなと思うとすっと視界は開けた気がした。
誰かの為とかは柄では無いけど、それもちょっと良いかもしれない。
「さっ先生!歩く練習を続けましょうか。」
はいっす!と白波は再び表情を改める。鋭く自分の姿勢を観るその瞳はやはりこの子もプロなんだなと安心する。
「あっまた座っている姿勢が崩れているっす。良いっすか?立てば芍薬座れば牡丹・・・そして歩く姿は百合の花っす!」
分かった分かったと西村は笑みを浮かべる。
目の前に広がる長い廊下、それ以上に続く長い自分の人生だから。
リハビリも悪くは無いな。
西村は一生懸命に言葉を掛けてくれるその心地良さに左足へとしっかりと体重を掛けた。
【〜目次〜】
『内科で働くセラピストのお話も随分と進んできました。今まで此処でどんなことを学び、どんな事を感じ、そしてどんなお話を紡いできたのか。本編を更に楽しむためにどうぞ。
【総集編!!】
【これまでの話 その①】
【これまでの話 その② 〜山吹薫の昔の話編〜】
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