店の奥が霞むくらいの照明は心をとても落ち着かせる。お酒を飲みながら勉強するなんて良いのだろうか。それでもまぁ目の前の進藤さんもまた、ゆっくりと火酒を口に含んでいるのだからお互い様かと上代葉月はそう思う。
さて続きだね。まずは食べられない人に関して話そうかな。上代くんは飲み込みのプロセスに問題が生じて食べられなくなるのはどんな時か分かるかな?
えぇと脳血管障害や神経系の疾患で飲み込む事が出来なくなる・・・という事でしょうか?
そうだね。飲み込みに関わる口の筋肉、喉の筋肉。その支配を司るのが中枢神経なのだからそこに障害が生じるとうまく動かせなくなる。それは足が麻痺して、その影響で歩けなくなるのと同じように捉えても良いかもしれない。
例えばうまく食べ物が噛めなくなる・・・といった事ですか?
それもあるね。口の中に物を留めておいて、それを咀嚼し、喉へと送り込む。その機能が落ちて口の中に食事の残渣物、食べ残しが増え、その時点で誤嚥性肺炎のリスクがある。そしてそのまま唾液や飲み物と共に、大きな固形のままに喉へと流し込まれるとムセこむのは想像がつくだろう。
えぇと上代は頷く。目の前にはいつの間にかチャームのナッツ類が小皿に並んでいる。なんだか可愛いな。と上代は赤茶けたアーモンドをつつく。
確かにそうですね。形ある物をそのまま飲み込もうとすると確かにムセ込みます。
そして口の中の筋肉が上手く動かない時には、当然その奥の喉の筋肉も動きづらくなる。飲み込む時にはこう、気管支に滑り込まないように食道がぐっと持ち上がり、そしてそれに蓋をするように喉頭蓋が垂れ下がるように動く。
そうやって気管に流れ込まないように飲み込まれていくんですね。
ここら辺は意識的に行える所と行えない所に分かれる。そのタイミングが崩れてしまっても、上手くいけばムセ込んで口の外に出すことができる。
上手くいくと?と上代はナッツを突くのをやめて進藤を見る。気だるげなバーテンダーは空になったグラスをコースターの上におく。
ムセ込むとは上手く飲み込めていないサインではあるけど、それでも異物を口の外に出そうとする自然な反応でもある。そして延髄の外側には咳を出す反射中枢があってそこが侵されるとムセ込むことも出来なくなるし、そこには飲み込みに関わる中枢も多いから飲み込む事も障害される。何かはわかる?
延髄外側症候群、ワレンベルグ症候群ですね。
よく勉強しているね。左右の乖離する感覚障害や軽微でも存在する運動障害の陰に隠れて嚥下障害として教科書に書かれているけど、この疾患で一番難渋するのが嚥下障害とそれに伴う咳嗽が出来なくなる事だよ。
そうですね。それが出来なくなると、例え歩けていても生活は難しくなりますもんね。
そうだな。と進藤は何か飲む?と上代に尋ねる。上代は同じ物をと伝えて進藤は言葉なく一度だけ頷きグラスを下げる。
それは球麻痺と呼ばれているね。そしてそれに類して、というか似たように障害される事も多い。例えば微小な脳梗塞を複数起こしている場合、特に両の大脳半球が障害されると仮性球麻痺と呼ばれる症状を呈する。
ラクナ梗塞・・・というやつですね。他にもパーキンソン病でも飲み込みが障害されるんですよね?
そう。それもまた飲み込みに関する筋肉が動き難くなるから誤嚥のリスクは高くなる。その他にも脊髄小脳変性症や核上性麻痺もあるし脳卒中関連でももちろんそうだ。まぁ神経筋疾患が原疾患や既往歴にあったら誤嚥性肺炎のリスクをまず考える事が必要だね。
それは大切ですね。常に言語聴覚士の方に介入して頂ける訳でもありませんし、自宅では家族が考えなければいけない場面も多いですからね。
新たに注がれたグラスから再びライムとラムの香りが立ち上る。口にと僅かにさっきより甘いと感じた。
他にも飲み込みの筋力自体が落ちる。加齢やサルコペニア、フレイル、カヘキシア。いろいろ表現は違うが何らかの影響で飲み込みに関する筋力が低下した時もまた同様に食事が取り辛くなる。まぁそれらについてはいつか話すよ。それらは同時に飲み込む力と共にムセ込む力も低下する事が多いから食事を安全に取れると言う事自体が障害される。
痩せていて、首の筋肉が筋立っているような時ですか?確かに筋力が落ちて歩けなくなるように、筋力が落ちて飲み込めない事もあるのですね。
そう。そして認知症の影響も見逃せない。口の中に食事を溜め込んでしまってそれから誤嚥する事もある。信じられないかもしれないけど、食べている途中だと言うことを忘れてしまうことだってある。まず安全に食事を取れるという事が食事量を増やして、栄養状態の改善につながる第一歩だとまず僕は思うよ。
確かに、食べられなくて痩せているのに、栄養状態を改善するために無理にたくさん食べて頂こうとすると、誤嚥のリスクも高まるという事ですね。
行為自体は間違っては居なくてもその良心が逆に働く事もある。だから怖いんだよ。それに食事量自体が減っている事自体が、実は誤嚥しているのを示唆している事もあるから油断はできないね。
上代は進藤を見る。何かを思い出すように僅かに表情を緩めている。月夜にも似た灯りほどしかないこの店ではその表情は雰囲気でしか分からない。
まぁ纏めると神経に関わる疾患と食事というのは切っても切り離せない。もちろん誤嚥もだね。それに飲み込みもまた目には見え難いというだけで筋力の話であるから、痩せていて飲み込みに関する筋力低下もまた問題ということだね。そしてその多くの問題は口腔期から咽頭期に生じる。
そして食事量自体が減っている時には誤嚥も疑って、安全に食事が取れる状況を作ることが栄養状態を改善させる第一歩ということですね。
良くできました。と進藤は頬を柔らかくする。それを見て上代もまた笑みを浮かべた。月夜ほどしかないこの店の明かりが、どうしようもなく明るく暖かく思えた。
上代葉月の手帳 2
・神経筋疾患と食事の関連はしっかりと意識する。それに認知症や過度に痩せている人もまた食事を食べられない人という事かもしれない。
・安全に食事が行える環境を作る事が栄養状態改善に必要。
・表情は乏しいけど進藤さんは優しい。そして何を考えているのだろう
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